雲の隙間の形

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 何年か前に鎌倉にある十文字美信さんのギャラリーで、渓谷の透明な水の流れと、流れの底にある石を撮った写真展を見たことがある。写真に向き合うときの自分の気持ち、いや、写真だけでなく音楽を聴くときも、料理を食べるときも、本を読むときも、人と会話するときも、そのときの気持ちの持ちようで、感受と言うのか感応と言うのか、そういう受ける方の力が全力であったのかどうか?と言うことがあって、全力でないときがテキトーってことになるのだろう。あの十文字さんの写真を見たときは、もちろん写真の側にも見る人に全力を出させるような写真としての格のようなものがあったのだろう、そういう抽象画のような写真にずいぶん引きこまれた。引きこまれると言うことは、抽象のなかに自分だけの具象への置き換えが起きて、その具象が自分なりの解釈の手助けとなるようなことだと思う。その解釈には見る人の知識や記憶や経験が必要となり、それぞれの写真は画像(データ)としては同一でも、それぞれの人の心に写真が残した事はぜんぶ違ってくる。あの十文字さんの写真展は何周も会場を回って、そこに見えてくる意表を突かれるような物に驚いたものだった。

空は概ね雲に覆われていて、一部だけ雲が切れている。この空になにか見えるような気がしました。これは私が撮った写真の成果ではなくて、空の成果だろう。いや、空になにかが見える気がした私の心のつたない伝達なのか。そもそもこのときこんな風に空になにか見えるような気がしたということ自体が、私の心のことだろうな。どちらかと言えば明るく前向きで元気なときにはこんなところに目が行ったりしないのではないか。

https://misaki-taku.hatenablog.com/entry/20161022

4年前でした。