踏切

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 いかに暑くても真夏の日差しに照らされた町は魅力的だと思います。踏切で止められた車の前を私鉄の電車が通って行く。白いTシャツに赤いキャップを被った若い(たぶん)男の後ろ姿が見える。例えば去年の夏休み、一昨年の夏休み、五年前の夏休み、どこへ行ってなにをしたか?誰と話して何を感じて、何を得たか?何を食べたか?そして、誰を傷つけてしまったか?誰かに頼ったか?誰かを裏切ったか?(吉田拓郎の「今日までそして明日から」の歌詞みたいになってきた)そんなことを並べることができるほどに記憶は鮮明ではない。けれど、このパソコンにつながっているHDDに大量に収められている写真をたよりに、私が見て撮った、去年の、一昨年の、五年前の夏の写真を見返せば、そういったそのときの状況や気持ちもくっついて思い出せるのかもしれない。そのときに撮影者はいちばん身近な鑑賞者になり、写真の力を利用して写真とリアルに紐づいている、そう言う「物語」を思い出すだろう。しかし、撮影者ではない第三の鑑賞者がその写真を見たときにも何かを思い出すかもしれない。より抽象的だったりあるいは「雰囲気」から同じ「雰囲気」の記憶を。

例えば先日のNHKeテレの「日曜美術館」で戦争で亡くなった若き画学生(や若い画家)の作品を紹介していたが、もちろん紹介される絵画作品そのものに込められた思い(を間近に感じられるよう番組は作られているからまんまとはまって)に思わず涙がにじんだりもしたけれど、その画家や作品制作現場やモデル(たいていは恋人や奥さんだったりする)などが写っている写真が「資料」として写ると、それはあくまで「資料」なのだけれど、どうも絵画と並列にその写真の力にも目を見張ってしまうのだった。

そうえ言えば去年か一昨年、ボナール展に行ったのだが、そこに展示してあったボナールの写真のことはいまでもよく覚えている。なんだろう、絵画以上に「とある一日」が見ている第三者にも転写されるような力を持ちながら写っているからだろうか。それとも私がただ写真に過剰反応するようになってしまっているからだろうか。