窓からの風景

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ザ・ノースフェース スタンダード京都3階の窓から麩屋町通×六角通の西南角の小さな公園を見下ろす。窓ガラスには強化のワイヤーが斜めに交差して走っている。写真を撮ったが、そのワイヤーに太陽の光が反射してぼんやりとした白い線、その中に虹色が見える線が写っている。この公園の北の道の六角通を、そこを通ろうとなにか意図したわけではなく、なんとなくどこかへ行く道筋に選んでいて結果として通ったことが何度かあった。上の写真にも桐かユリの木の葉の向こうに、昔からずっとこの公園にあったに違いない滑り台が写っている。その滑り台が、私の、京都に来ているときで、かつ、ここを偶然通ったとき、すなわち滅多にない旅の日と偶然の通過が重なったときの、必然としての定番被写体なのだ。最初にその滑り台を撮ったときは雨の夜だった気もする。上の写真ではその滑り台の威風堂々とした感じはもちろん判らない。滑り台はこの写真ではわからないが、威風堂々としているのだった。鉄道写真の一分野に形式写真と言うのがあるらしい。機関車や車両を形式としての記録写真にするときに、車両の正面から△度角度を取ったところから、レンズの画角×度程度の焦点距離を選び、仰角◇度をつけて、車両の全面を画面の中心からフイルムの左右を100パーセントとして◎パーセント分横の位置に捕らえる、といったような「正しい形式写真としての決まり」があるのだと思う。その雨の日に撮った滑り台の写真は、そんな△や◇や◎の決まりを数字としては知らないけれど、なんとなく形式写真みたいに撮ったのだった。すなわちこの公園の滑り台はC62型蒸気機関車のように威風堂々としていて、それを撮るには形式写真のように、滑り台の威厳を正しく残すことが撮るべき写真なのだと思えた。・・・なんてこだわりのある滑り台のある公園が窓から下に見下ろせた。ミラーレスカメラのEVFでいちど電子信号に変換されてから液晶に再生された画像を見ていると、そのなかでいま動いている風景は、光学ファインダーのようにリアルな「そこ」ではなく、短い時間でも遅れがありしかも電子映像であって、すでに一度写されたものからの再生画像と言う感じがする(いやなにその通りなのだが)。そしてその「再生画像」のような、でも時間差はほとんどない「ほぼ今」のファインダー電子画像を見ていると、光学ファインダーよりもそこで動いている人や物に自分が意識的になっているように思う。まるで誰かが編集し終えた動画作品を見ているような感じに自分がなっているから、ほぼ今の像が誰かが撮ったものを鑑賞しているように思っているのかもしれない。自転車が北に向かって進んでいく。女性が立ち止まってスマホをいじっている。シーソーに小さな女の子が二人遊んでいるが、うまく「ぎったんばっこん」しないのか父親らしい人が手伝っている。そう言う人の動きを写真を撮らずに電子ビューファインダーのなかで鑑賞してしまっている。それでもシャッターを何度か押して写真にしたが、写真になると、動くことでくっきりと注視していたそういう人々が、そんな風に(撮ったときのように)くっきりは見えないのだった。

下の写真は旧涼風小学校の校庭を教室の窓から見下ろして撮ったもの。この小学校が「元」でなければこんなふうに校庭に雑草が生えたりはしなかったのかな。

さらに下の写真は同時代ギャラリーの窓越しに向こうのビルの窓に貼られた星条旗を見た風景です。

窓は最初から風景を区切ってくれているから、そこに依存して「窓任せ」にしてしまうと、なんだか窓のおかげで写真が良く写った気がする。

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