海への道すがら

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一昨日から再読していたのは西崎憲著「世界の果ての庭」。小説の物語そのものではなくて、その本を読むことで感じる、色合いのようなこと、明暗の感じ、あるいは、静かなのか賑やかなのか、のようなことってどこから読者は感じているのだろう。その物語とは関係ない、というか、物語以前に感じるそういう音楽のような感じ方をする部分、短調長調か、早いテンポかスローな曲か、ソロ演奏か重厚なオーケストラか、みたいなことは文章のどういうところから感じ取るのか。ところでこう書いてみると、音楽はそういう聴く人が感じることの成り立ちがけっこう分析されているってことか。明るさを伝えたければまず基本長調を選ぶべきで、一方悲しさを伝えたければ短調が向いている、みたいに。音楽はさておき、そういう文章から感じる音楽的なことがどこで成り立っているのかはよく判らないけれど、この西崎憲の小説を読んでいるときに感じる「小春日和の風景の中にある平穏そうな建築物のなかで過去に行われた不穏な事件をはじめて知るときみたいな感じ」(←長すぎる比喩ですが・・・)は魅力的だ。以前も書いたかもしれないけれど、この長い「~」に書いたような感じはボルヘスの伝奇集にも通じる気がします。読者である一個人の私だけの感想かもしれません。

その小説を家の近くのとんかつ屋で牡蠣フライを頼み(11:45)、それが出来上がるまでの待ち時間や、砂浜を見渡せるコンクリートブロックに座りながら、あるいは、カフェでホットコーヒーと山形県産紅玉の焼きリンゴバニラアイス添えを飲んだり食べたりしながら、読んで、読み終わったので、つぎにこれも再読の堀江敏幸著「めぐらし屋」を読み始めて、17:00前にもう日が暮れた町を気の向くままに路地を辿りながら少し遠回りをして帰宅した。

昨晩、このブログの2010年頃の記事を読んでみた。と言うのも新しい記事の下の方に「関連記事」みたいなブログ内リンクが勝手に貼られているので、そこに出ていた記事を気まぐれにクリックしたら2010年の記事が出てきた。書いてあることはさておき、写真がいい感じ。自分自身が撮った写真を自分自身でいいとか言うのもアホみたいだけれど、これが自分のなかでは不安な感じで「昔の方が気に入る写真がどんどん撮れた、いまはいくら撮ってもあの頃の一枚のような気に入る写真がぜんぜん撮れなくなっている」と思うのだ。もっと簡単に言えば「写真が下手くそになっている」という感想。

西崎憲の「世界の果ての庭」の感想は上記の通りなんだけど、上記の長い比喩を書きながら思い出していたのは、それこそ2010年には須田一政写真塾に通って、毎月毎月写真を見てもらっていたのだが、あの頃、須田先生は、一見平和なように見える風景に写っていながらそこに写っている家屋のなかではなにか事件が起きた歴史があるような「怖さ」を写真から感じる、といった感想を、私の写真に対しても誰かの写真に対しても、須田さんの心の尺度でそう感じることがあると「誉め言葉」としてそういう指摘をおっしゃっていたな。

須田一政先生自身は「日常の隙間に垣間見えた異界を写す」写真家と言われている。その「異界」と言うことが、この、一見平穏そうに見えてなにか過去に悲劇や惨劇が起きたような「不穏」が垣間見える、と言うことと同様のことなのか類似なのか、あるいは違うのか。そして同じように昼間の住宅街を撮っていても、2010年の私はちょっとはそういう見え隠れする不穏を見つけ出し写すことが出来ていたのかもしれないが、いまは不穏が写らないからつまらないのではないかな。

とか書きながらも今日撮ってきた写真をここに6枚も載せてしまいました。

まぁ、写真は大抵、撮ったその日に見直しても見ていたそこの記憶がまだ鮮明だから写真を見極めるところまでこちらの気持ちが「選択眼」になっていない。なのでしばらく日を置いて、その生々しさを忘れたあとに見れば、別のなにかがはじめてそこで見えてくるに違いないからこれらの写真も、数日後数か月後数年後十年後には、いいじゃん!と思えるかもしれないな。そう言う風に思うところが、私は、基本、楽天家なのかもしれない。

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