葉山の美術館に

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神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「生命のリアリズム 珠玉の日本画」展示が最終日を迎えているので、自家用車で行ってみる。

ウディ・アレンミッドナイト・イン・パリスで主人公が憧れの1920年代にタイムスリップすると、その20年代に生きる人たちが、その時点でさらに古いいつかの時代に憧れているような場面があった・・・だろうか?そんな気がするけど。こんど見直してみようかな。

美術館で見た朝倉摂や荘司福等の女流画家が昭和20年代30年代の日本の市井に暮らす女性や子供たちを描いた作品を見ていると、そのころに制作されたモノクロの日本映画に出てくる女性たちの早口の都会言葉、語尾がちょっと跳ね上がるしゃべり方、が思い浮かび、なんだか昭和20年代30年代頃の日本の方がいまよりずっと単純で夢がわかりやすくて全体として幸せだったように思えてくる。つらいことも大変なことも我慢しなければならないことも、判りやすい幸せに向かっていることで、頑張れたのではないか、などと単純に考える。実際にはどの時代にも人の心にある明るさや暗さや、辛さや悩みの総量は変わらず、個々人に起きている目下の悩みは同様なのかもしれないから、タイムスリップしてその時代に行くと、上記の映画みたいに、人々は昔は良かったと言っているのかもしれない。しかしその昭和20年代30年代が今だと考えると、そこからちょっと昔とは戦争の時代になるから、人々はリアルに戦争に直面しているわけで、そうだとすると今および未来が輝いていて、そんな風に過去が良く見えるというセンチメンタルはあまり入り込む余地がなかったのかな?

なんだかこうして昔のことを思い浮かべるときって、否応なくその時代に対して今の時代の方が優位であって、上から目線的に思い浮かべる傾向が一般的ではないか?過去には戻れないという今の優位性から、放っておくと勝手に気持ちがそうなっている気がするな。

だからこんな感想すら時代に対して失礼なことなのかもしれないけれど、その頃のことは露出オーバーのネガカラー写真のように明るく思える。

県立美術館のすぐ近くにある山口蓬春記念館があることに往路の自家用車の中で気が付いたので、寄ってみる。もう冬だけれど、今日はまだ晩秋のようだ。晩秋に一日だけ巡ってきた穏やかな日だ。紅葉の葉はカサコソと音を立ててふと舞い落ちた。つわぶきの黄色い花、山茶花の赤い花。画家が筆で溶いた顔料は固まったまま皿に痕跡を残している。瓦やスレートの屋根の向こうに海が見える。キラキラと海面が輝く。

画家の紹介動画のなかで山口蓬春の写ったモノクロ写真が何枚も出てくる。外で撮られた、学生時代の仲間と撮った、あるいは、なにかの受賞のあとに他の受賞者とともに撮った、記念写真が。ハレの日の記念写真だけれど、時を経ると、そのハレの理由よりも、ああ何十年も前の晴れた日に、そこに人の思いがあって、それを包み込むようにその瞬間のその場所にそよ風やもっと強い風が吹いていたんだと思う。

今日もこうして晴れた良き日なのに、写真に残った過去の晴れたその日に憧れる。

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