川沿いの道

 

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1月18日の夕刻の散歩のときに撮った写真は、帰宅してからPCに取り込んで眺めても、どのコマ(コマという言い方がすでにフイルム時代の名残かもしれない。もちろんフイルムではなくデジタルで撮ってます)もぱっとしない。そこでその日にはブログにも写真をアップせず数日経ってからもう一度見ると、今度はこの上の写真と下の写真と、もう一枚くらい、まぁまぁいいんじゃないか、と思える写真が、今度は見つかった。そこで18日のブログに21日にこの写真を上げて、22日にいまこうして文章を書いています。

以前も書いたけれど、たぶん、撮ってきたすぐに写真を見直すときには、そこを今撮ってきたという記憶が生々しくあるから、平面となった視覚情報だけがぽんと目の前で再生されてもなんとなく面食らってしまうのではないか。それでどの写真も気に入らない・・・という風に気持ちが動くのはもしかしたら個人の性格かもしくはその日の気分のせいかもしれない。なかには、そういうときはどの写真もよく見えるが後日になると色褪せるという人もいるかもしれないが。須田一政さんはフイルムは撮ってすぐには結果が見えないから、写真が出来上がるまでに時間がかかる。その時間にあのときとった写真はどう写っているだろうか・・・と妄想する、その妄想する時間が写真を変えているとも言える、ということをおっしゃっていたな。変わるのは見方なんだけど、たしかに写真は見られてこそ写真なのだから、それは写真が変わるということだろう。

21日になってみると、上の写真はターナーあたりの風景画に描かれるような冬枯れた端正な風景写真に思える。一方下の写真は実際にそこにいたときはもう少し家の水色が鮮やかに見えたと思うのだが、それこそ生々しい記憶に引きずられて写真を眺めているってことで、撮影者以外の鑑賞者はそんなことは知らないから、そこにこだわらなくてもいいのだろうな。中学生から高校生のころにフォークギターブームが起きていて、楽器やでやすい方から二番目くらいのフォークギターを買ってもらい、本屋で買って来たコード譜の乗っている雑誌で、指先が痛い!と思いながら練習を始めた、そのころに「朝日のあたる家」という曲がありました。下の写真を眺めているうちに「夕日にあたる家」だな、と思った。そこに高速道路があったから高速道路ももちろん写る。べつに高速道路があることになにか社会的な課題を告発したりしたいわけではない。これもありふれた今の光景だと思うだけだ。目下の最大の焦燥はその「朝日のあたる家」のメロディーが出てこないことだな。この文章を書き終わったら聞いてみよう、YouTubeで。

昨夕、この上の写真を眺めながら、なぜだか「スカボロフェアー」のメロディが自分の頭のなかで流れました。スカボロフェアが冬を歌っているわけではないのに、そのちょっと哀愁のある感じが写真と呼応したのかな、自分の心のなかで。小学生のときに映画「卒業」を観たのは、平塚市の映画館で「小さな恋のメロディ」と二本立てだったからだと思う。たぶん小学校6年生だったかな。なんだか大人の世界を垣間見た気がしたが、どこまで理解して観ていたものか・・・ただ、サイモンとガーファンクルの曲は、その素晴らしいメロディを、みな覚えたものだった。パセリ、セージ、ローズマリー、&タイム。そのころはこれらの香草のうち知っているのはパセリだけだった。だれかにセージとローズマリーとタイム、は香りのする植物の名前だと聞いて、単純に西欧はかっこいいな、などと思っていたのだった。

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