片隅の植物

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日没前の西日が川沿いの散歩道と住宅地に降りていく細い小道のあいだにある植え込みの植物を強烈に照らしていた。こういう場所の植え込みの管理をしているのも茅ヶ崎市なんだろう、枯れた雑草が刈られた直後のようです。スポットライトを浴びているみたいで、その辺の当たり前にあるありふれた植え込みが美しい。カワラヒワとすずめとシジュウカラが鳴きかわしては飛んで行く。

写真評論家の某氏がだいぶ前のカメラ雑誌に、ダメなスナップ写真は「写真の意味がひたすら外の文脈に依存している」写真であって、例えば被写体が「殺人犯」「撮影翌日に死んだ」とか「この場所は放射能に汚染されている」「犯行現場である」とか「カメラマンが殺された」とかである、と書いている。そして次にダメな写真は「プロのテクニックによる写真美がビシッと決まっていて、同じ写真が簡単に撮れそうで実は撮れないということを再確認するだけの写真」とも書いている。そしていいスナップ写真は「誰でも撮れるのに誰も撮っていない写真」だと言う。写真ではなくスナップ写真と言っているところになにか意味があるのかはわからない。これだけ読むと、米田知子とか藤原新也は、この評論家からは全否定されているように思えるが・・・。いや、スナップと限定しているなかでの話なのかな。もうそのカメラ雑誌は手元にないので読み返すことはできない。上記の部分だけ気になったのでメモってあった。

写真を撮りたくなるその場所の「条件」ってなにだろうか?この上の写真だって、西日に照らされるという、この植物群の一日の中では一番「際立つ」時間にここを通りかかったから撮ったのではないか。結局この評論家の言うような文脈に属さない「その辺」ではあっても、「次にだめ」な写真美というところには、テクニックには寄らずにただのプログラムモードだけれど、過去の写真に汚染(でいいのか?)されていてサムネイル参照のように撮るべきところが縛られているかもしれないことと、結局は西日が当たっているありふれた場所なりの決定的瞬間を撮っていることと、そう思うと、誰でも撮れるのに撮らない場所を撮ったとは違うのだろうな。やはりなんか「美」みたいなの撮ろうとしているんだと思う。そんな片隅にはないと見過ごされている美って感じ。

落語を客を笑わそうと意識せずに話すことで一番の笑いが得られる、小説を書くのでなく登場人物が動き出してそれに引っ張られて書かされる、絵をなにかに描かされているように筆が勝手に動く、とそれぞれのプロの方がそういうことをよく言っているのを聞いたり読んだりすることがある。写真を撮ることにおいて、そういう撮り方ってあるのだろうか?

グーグルストリートビューを作るために車の屋根に括り付けられてストリートを撮っていく自動カメラが一番の達人なのかもしれない。そうだとすると、一番のカメラマンはグーグルの車を運転している運転手だろう。そしてそこから乱数表的に選ばれた何時何分何秒かに記録された写真がいちばんいい写真なのだろうか。それが世界を一番現わしているということを否定できない。