公園

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 たしか梅園があったなと思い、横浜根岸の森林公園に行ってみる。梅は満開の木と咲きかけの木と、まだまだ蕾の木と。この場所は明治の頃だろうか、競馬場だったそうだ。競馬場のスタンド席のある建物、ここには写っていない(もっと左)けれど近代建築遺産として残っている。今年の冬は暖かい日と寒い日が順番に巡ってくる。いや、例年だってそうだろう。ただ、寒い日はとても寒いし、暖かい日はとても暖かい。だからそういう天候に意識的になっているんだろう。私のような一人でカメラをぶら下げて歩いているおっさんは、ここに写っているほとんど全部の方が小さな子供を遊ばせている家族連れなので、そこには属していない。属していない私がこうしてここを撮るその気持ちはなになのか?これも結局は、自分の過去の記憶に照らし合わせている懐かしさなのだろうか。それとも写真の典型の一枚として覚えてしまっているサムネイルに合致していると思い、ここは撮るべきところだと決めて、撮っているのか。こんな平和(そう)な写真を撮ることの意味はなになのか?広い場所に人がぽつぽつとちらばって写っている写真をいいと思うのは、いつからそうなったのだろうか?なんだかなあ、撮る写真がぜんぶ浅薄な気がするな。違う撮り口を試みるようなことをずっと出来なくなっている感じがする。よくない。

とかこうして書いているが、こういう写真がいいなと思うところを覆すことはできそうもない。

夜、NHKテレビで私が高校から大学生のころに人気バンドだった「TULIP」のリーダーの財津和夫が、年齢や病と戦いながら数年ぶり?に新曲を作っていく過程を取材したドキュメンタリー番組を見る。さて、どんな曲ができるのかな?いくら頑張っても年をとってしまうと、キラッとするようなメロディを生み出すのは難しいのではないのか?と思って見ていたが、番組の最後の方で実際に歌われる新曲は、小品だろうけれどしゃれたメロディラインで、いい曲だなぁと感心したりする。TULIPの黄色い靴やセプテンバーは、さらにさかのぼるとBEATLESBlack Birdのような、洒落た曲。

でも若い頃なら、そこでいいなと思ったら自動的にそのメロディを覚えることができたのだろうけれど、いまはすぐに忘れてしまう。そう思った感想だけが宙にぼんやり浮かんだ風船のように残っていて、そう思わされた曲そのものは覚えていないのだった。

ま、そうだろう。小説だって、読み終わってすぐに、もはや具体的な物語なんて覚えていない。でも「雰囲気」は覚えている。

雰囲気という単語、以前は嫌いだったな。なんか、わけがわからなくてちゃんと把握してなくて言葉に置き換えられなくてあいまいで、実は理解できていないことをごまかすために「雰囲気があった」などというのは逃げているようなものだ、と思っていたのだった。最近は、それはとても大事なことだと思う。