夢の言葉

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朝4:30前に目が覚める。その直前に見ていた夢の余韻のなかに「パプリアーノ解禁」という言葉が残っている。こんな言葉もいつもならすぐに忘れてしまうものだけれど、消えてしまうまえにスマホにメモを残した。そんなことをしたこと自体を忘れていたけれど、昼休みにふと思い出して、メモを読んでみて、その言葉であったことを知る(思い出すではなくて知るという感じ)。そんな単語があるものなのか?あったとしてこれは偶然たまたまあった単語(名詞)に合致したことになるのか?それとも忘れているだけで過去のなにかの会話や読書やテレビとかラジオからのインプットでその単語に接したことがあったのか?ネットで調べてみるとイタリアのワインの関連と思われる記事にかろうじてその単語が出てくるが、たまたまであるに違いないと思う。昼休み、近くにいた同僚にそんな話をすると、それは前世の関係とかお告げかもしれないからイタリアに行ってください、などと無邪気に無責任に言われる、という典型的会話をする。

車に乗って渋滞にはまってもうしばらく動き出す気配すらない。車に乗っているとそこが緩やかな上り坂であることにもあまり自覚的にはなれない。でも自転車をこいでいるひとは立ちこぎになっているから上り坂か、あるいは向かい風だろう。きっとこの上り坂をこいで進むのはきついのだろうな。いまの私の体力だと降りて、自転車を押すことになるのではなかろうか。自家用車でぼんやりしているよりも、あの自転車の青年のあとを必死にこいであるいは降りて押して、この川に吹いている風を感じたり、南側に並行してある鉄道線路をJR貨物EF66が長いコンテナ貨物を引っ張っている音を聴いたりするほうが私の「心」にとっては良いのだろうな。

土曜は午後から雨、日曜は終日大雨の予報になっている。実は日曜日に平塚のスタジアムで行われるJリーグベルマーレVSセレッソのチケットをとあるプレゼントキャンペーンでゲットしたのだが、試合時間の天気予報は大雨のなかでもさらに特に大雨。かつ雷と強風もやってくるという予報なのだった。いただいたからには行くことが「礼儀」のように感じてしまうものの、さすがにあまりに荒れた天気だったとすると行かなくてもよいのだろうか?

夕方、数日前のブログに写真を載せた近所の紫木蓮を見に行ったが、二日たって花のピークを過ぎていた。茶色く枯れたような色をまとった花弁がたくさん落ちていた。木蓮の下に50ccのスクーターを停めて、短髪の髪を茶色に染めた若者が一人、しゃがみこんでは見上げるようにしてスマートフォンで何枚もじっくりと写真を撮っていた。花が落ちても残念とかもう美しくないとか、そういうことは思いたくない。そんな人間の都合の美的基準などは植物に対して失礼な気がするから。ただ、そうか、君は花のピークを越えて、たくましく今度は次の新緑へのフェーズへと生きていくんだね、がんばれ!と思うようにしていたい。

木蓮を見た後に近くにあるテイクアウトパスタの店でポルチーニ茸のホワイトソースパスタを買う。さらにテイクアウトパスタの店のすぐ隣のパン屋でオレンジとクリームチーズのパンとオリーブのチャバッタのパンを買う。さらに帰宅途中のローソンにも立ち寄ってしまう。オリオンビール350ml缶を一缶だけ。

アルコールに弱い私は2時間かけてテレビをぼんやりと見ながらその350mlを飲んで、そのあとに少し眠ってしまった。ここで今朝見た夢に出てきた単語が再び現れるとさすがにちょっと気にしてしまうだろうか?そんなことはもちろん起きないのだった。

そうそう、先日、NHKテレビのアナザーストーリーって番組だったかしら、クラークとキューブリックが映画「2001年宇宙の旅」を制作したときのエピソードがたくさん紹介されているのを観た。私がこの映画を見たのは中学3年(1971~72年)か高校1年頃だったと記憶しているから新しい映画として封切られた1968年からは数年を経た頃だ。地方都市の映画館になにかと二本立ての一本として回ってきたのだったのか?いや、もしかしたら大学生になった1975年とか76年だったのかもしれないな。名古屋の名画座で。

最初に見た時には圧倒されましたね。ラストの解釈はまるでなんのことだか分らなかったけれども、だからといってつまらないとは全然思わなかった。この分からない感じ、謎というか摩訶不思議な感じが、すなわちそれゆえに新しさであり、なにか挑まれている気もして。そういうことが新たにここにあるがゆえに、この先の未来は夢に満ちているようにワクワクするのだった。ああ、そうだった。あの頃のマイルス・デイビスのアルバムや、SF映画ではなくてもニューシネマの数々や、プログレッシブ・ロックのアルバムや、次々に刺激される新しさに直面出来ていた気がするな。

などと書くけれど、きっと今だって、それが私にはなかなか感受されないだけで、同様の変革は起きている・・・んだと信じたいですね。どうなの?