晩春

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昨日のブログに使用した切手の写真、以前使ったような気もしたものの、そんなことないだろうな、と思っていたが、ちょっと気になってこのブログの記事の検索ワードに「切手」と入れて調べてみたら、なんと以前にもその写真をこのブログに使用していました。しかもそのブログのページには、それはある写真集を購入して送られてきたパック(いまは小包なんて言わない感じ・・・)に貼られた切手で、なぜか消印が押されてないように見える、と写真をとった経緯が書いてあった。

面白いのは昨日のブログに切手の写真を使ったときは、そういう消印の有無という小事件?のことなど思い出しもしていないし、写真の切手に消印が写っていないことも気にならなかった。昨日のブログに書いたように、なんだかちょっとぼんやりとしてハレーションがかかったというのか、この切手が貼られた荷物が内側から発熱しているような、そういうイメージから選んでいて、そういう印象に敏感だったのはそのときにたまたま本棚の上の方から久しぶりに引き出して捲ってみた写真集の印象が引き金なのだった。

消印とか送られてきた写真集というのは最初に切手の写真を撮ったときのリアルなエピソードだけれど、そういうものは何年か経つうちにすっかり洗い流され忘れてしまっていて、それなのにその写真をもう一回選んだときには、もっと抽象的な印象から選んだことになる。という実際にそういうことがこうして起きると、第三者的な、エピソードを知らないフラットな状況での選択眼に写真を選ぶ基準が移行したように思えるが、よくよく考えれば、上記のような「本棚の上の方から・・・・」という新しいエピソードが写真を選ぶ理由になっていて、すなわち、人が写真を選ぶという意思に基づく行為には必ずエピソードがまとわりついていて、それは選ぶときだけでなく撮るときからすでにそうなのかもしれない。

自分の周りに雨粒が落ちているその状態を無音のままに体験できないか?と考えることがときどきあります。地面に立っていたら、地面や周りのあれこれや自分の傘や体に雨粒が当たる音がするだろう。仮に上空に浮かべたとしても身体がある以上、雨は身体にぶつかって音を立てるし、身体を無くしてしまえばそんなことを考えることもできない(無だから)。

エピソードは音を立てざるを得ない雨粒のようなのだった。

 

じゃあ、この写真は使っていないんじゃないかな?これも数年前のGW中のある一日に茅ケ崎館という1950年代60年代に小津安二郎が定宿としていた旅館の広間で行われた映画「晩春」の上映会で撮ったもの。これまたよく覚えていないけれど、上映が始まる前の待ち時間にこの原節子のその映画の一場面となるスチールが投影されていたのではなかったか?

アマゾンプライム会員特典でたくさん無料で映画を見ることが出来るのだが、いつか見ようと思いつつほとんど活用していない。でも今日の土曜日は「この道」という日本映画、北原白秋のことを描いた映画を観ました。