写真を撮ろうとする気持ち

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今日の土曜日は雨模様。ここ数日、夕方にちょっと家の周りを散歩したときに撮った写真を見返してみるが、これならブログに載せてもいいだろう、とか、この写真を是非ともブログに載せて、見てもらいたい、などと思える写真が見つからないのだった。でも写真を選ぶときの選択眼というのか選択基準って、撮ってきてすぐのときと、しばらく経ってからとで、ずいぶんと変化するものだから、もしかしたら後日になれば、また違う目で撮ってきた写真を見られるかもしれない。よくあること。そういえば、この前誰かに教えてもらったんだけど、最新のスマホの?アプリで、撮った写真をすぐ見られず、時間を置いてから見られるようになるアプリみたいなのが出てきたとか。待ち時間の期待と不安と妄想。ドキドキするものです。でもそれってフイルムで撮って写真を入手するまでのシステムというか手順の標準(すなわち経済的な均衡の成り立っている状態)がそれだけの待ち時間を必要としていたところに、そういう気持ちが生じていたわけで、システム的にそんな時間は不要なのにも関わらず、待たせるということは、なんだか発想からしシステム開発者側の傲慢というか高飛車というか、どうも馴染めないな。

そんなわけで二年前三年前四年前くらいまで、HDDから撮った写真データを読みだして眺めてみている。すなわちこのブログの少し前の、映画「晩春」が映っているスクリーンと床の間の写真や、切手の写真なんかを選んだときと同じ行為です。でも今日はそういうデジタル写真のストックからなかなか気に入る写真が見つからなかった。そこで、なんとなくHDDのファイル名を見ているうちに、2005年前後にミノルタ・オートコードで撮っていた6×6カラーネガフイルムをフイルムスキャナーで読み込んだ、まぁこれだって結局はデジタル化された画像データではあるけれど、そんなファイルを見つけて開けてみる。けっこうたくさんのフイルムで撮った写真データがあって、それも全部は見切れないが、そのなかにこの写真があった。正方形からいつもの3:2に切り出しています。

切手の写真といい、映画の一シーンがスクリーンに写った写真といい、一つ前のロギンス&メッシーナのアルバムジャケットの写真といい、ここに載せた2005年頃に撮ったどこで撮ったのかもわからない写真に写っているストーンズバッファロー66のシールの写真といい、画像というかプリントというか誰かが作った平面作品を「含む」場面を撮ったコマばかり選んでいることになる。でもどうしていまそういうコマというか写真が気になるのかはわからないです。単にたまたまかも。

このブログにときどきはてなスターマークというイイねマークを押してくださる方のブログに貼られているYOUTUBEのとある歌手のMVを見る。そのMVを見ているうちに写真を撮ろうとする気持ちってなんだろう?という極めて原理的な疑問を抱いてしまった。

筆記用具という道具から生み出される文章にも詩や小説や日記やメモ書きや報告書や私信や日常のメモ書きや備忘録や暗号や・・・あるいはそういうテキストに限らず模様や絵画や、なにが生まれるかは定まらない。カメラというのも実はそういうものだと思うのだけれど「私はカメラが好きです」とか「カメラが趣味です」とか言うときに、相手はどんな写真を撮るのかあんまり確認せずに、趣味というからにはランドスケープだろうとか、花とかかな、とか自分の尺度で想像している。「私は筆記用具が好きです」とか「筆記が趣味です」とは言わないけど、でも「物を書くのが好きです」という場合はあるか。そう相手が言うと「何を書くの?」って聞くのではないだろうか?そのときにでもそれが報告書だとは思わないし、小説とかエッセイとか詩とか日記とかというある程度の想定がやはり発生する。それが(その想定されることが)写真の場合はランドスケープとか花とかポートレートとか鳥とかレースとか飛行機とか鉄道とかヌードとかなのだろう。いずれにしてもそれらは「作品」を目指しているか、いいかえると、誰かに見てもらいたい、さらになにか肯定的な感想を聞いて、嬉しくなりたい、ということにつながっているのだろうか。私が年間何万枚もの写真を延々とたぶん40年くらい(フイルムのころは年間数千枚どまりだったろうか・・・)撮り続けているそのひとつひとつの行為にも、こういう、今でいう承認欲求があるのかな?・・・ないような気もするが。以前、東松照明のインタビュー動画で、犬が電信柱におしっこをするように撮り続けるのが当たり前、と言っているのを見たことがあるけれど、それは初期のそういう欲求が漂白されたあとに無意識的に行為を常態化しているってことなのかな。

そしてそれでも上記のような写真のよくある「分野」は趣味として仲間も集うし、作品の良し悪しの尺度というか基準とか模範もあるし、その尺度の先には「見たこともない新しさがあり、個性的で、かつ見ていてなんらか心を動かされる」素晴らしい写真が出来ることもあり、すなわち表現活動としての在り方は、まぁ理解しやすいのだろう。

でも(そのMVにあるように)家族とか友達とか知合いで、休日に買い物とか遊園地に数人で一緒に行くときに、途中の道々でカメラを持っているお父さん(例えば)だけがふと立ち止まり、家並や雲や街路樹の影や道端の花や先を歩いていく仲間や家族を撮るそのとき、その人の心のなかに作品を作るんだというような気持ちはあまり意識的ではないというか、その動機として希薄なものだろうな。それなのに写真を撮る人は、将来という時点で過去になった今現在を振り返り、思い出し、思い出すのはその光景だけでなくそこに至ったエピソードやその頃の日々のあれこれを、そういう将来に思い出す行為をするという計画のようなことが心にあって、そのための作業として今を記録しようと思い立つのだろうか。記念写真をもうちょっと拡大解釈すれば「その日の記念に」そういう一緒の人以外を撮っても記念になるものだろう。でも、それって、甘い言い方をすれば、昔流行った「思い出作り」ってことであって、なんだか今現在を放棄して、今現在に傍観者になって入り込めず、未来に逃げ込んでいるようなことのように思ってしまうところもある。あぁ、食べたものを写真に撮るという行為もそこに属するのかもしれない。カメラの最短撮影距離がどんどん近くも撮れるようになったから、いま外食の場面で食べ物を撮っている人はどこでも見かける。デジカメが普及し始めたころはレストランや食堂側が「撮影禁止」を掲げているところもあったけれど、あれはあれで何が嫌だったのだっけ?礼に反していたとか常識がないとか周りのお客様が不快に思うとかだったかな。

なんだかすげーどうでもいいことを書いてますね。

未来に過去となる今現在を忘却することの恐怖を補うことが、そういう日常やライフログを残したいということなのかな?たしかに日記という筆記用具によって生み出される文章も同様なのかもしれない。詩や小説と違って、だけどその堺なんて曖昧だからこういう「括り」で考えること自体がもう間違っているのかな。

ただ日記にしても写真にしても、その未来となったいつかに過去となったいつかの記録を読んだり見たりしたときに、そこに起きている気持ちは、単純に思い出すということだけではなく、その読み返しているまたは見返している時点の今現在であるときの鑑賞者のさまざまな状況や感情や価値観によって、ただ思い出すなんていうことではないだろう。そこのところを撮るときには忘れているのではないか。忘れていてもかまわないけれど。

などと堂々巡りの考察。