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良く晴れた暑い朝。午前6時前後。いつもその川に沿った散歩道(例えば前回のこのブログに載せた写真のような小路)に、いつもの対岸側から入ってみる。そのあたりは何本かの大きな木が小路の上に枝を張り出している。もう少し進めば、木はまばらになり日が燦燦と当たるだろう。というその大きな木の辺りを歩いていると、その何本かの木のどこかに巣を持っているのだろうか、烏のつがいが盛んに鳴いてくる。これはちょっと警告されている感じだなと思っていると、とうとう後方から私の頭上数十センチのところを警告をするように烏が低空に飛行して行った。今日も黒っぽいTシャツに黒っぽいカーディガンに、紺色の綿パンツ。頭は白髪交じりだからグレーというところだ。烏はとくに黒いものに警戒するとなにかで読んだか聞いたかしたことがある。これは恐ろしい。もしかすると嘴や爪のある足で頭とか肩をやられるのではないか?かといって大慌てで走り去るのも相手を興奮させるような気がして、歩調を変えずに黙々と行く。一本目、二本目、三本目・・・木の下を通り過ぎるが、烏(のたぶんつがい)はお互い鳴きかわしながら、私の上を、一本目、二本目、三本目・・・と枝を渡って付いてくる。そしてまたもや低空飛行で威嚇された。そんなことがもう二回か三回、繰り返される。木のある辺りを通り過ぎて、さすがに烏も追ってこなくなり、ほっとした。幼鳥を育てている烏のつがいを刺激したということなのだろうか。中学の頃につながれていた首輪をどこかに括り付けていた紐が切れたのか、自由に歩き回れるようになった犬に追いかけられたことがあった。犬と言えば広い砂浜で飼い主がやはり紐を話して走り回らせている犬に向かってカメラを構えたら、これもなぜか猛然と追いかけられて肝を冷やしたこともあるな。だけどこれは両方とも誰かの飼い犬の話であって、烏とは言え、自然に生きている動物(鳥も含むとして)からこんな威嚇を受けたのは、実に初めてのことなのではないか。

朝早い保育園には園児も先生も誰もいない。園庭のアンパンマンの後頭部が朝日を受けて光っている。なんか面白いと思って写真をこうして一枚撮ったが、きっと写真を撮った私のことは監視カメラに写って何日間かは記録が残るのだろう。

不意に思い出すこと。1960年代前半、ひとりで留守番をしながらテレビで「白鯨」を見ていた。「白鯨」と思っているだけで、映画だったのか連続ドラマだったのかドキュメント番組だったのかはわからない。大きな鯨をそれを追う人々の話だったのだろう。不思議なことに、家のテレビはモノクロなのに、そのテレビを私はカラーで見ていたという感覚なのだ。それも後日になってではなく、見終わった直後から、今見た番組の各場面場面がみんな色が付いて記憶されているのだった。青い海、青黒い鯨の背中、赤いラインの入った船・・・。最初は、モノクロテレビにカラー映像が映るわけがない、という自明な理屈など思いもつかず、ただ自然にカラーで見た、ということを当たり前に受け入れていた。そのあと、翌日くらいかな?・・・あれ?そんなはずないのに何でだろう?と思ったのだった。

私はカラーの夢もよく見る、というか夢はカラーで見る。すなわち目という視覚情報から入ってくるのではない別経路で造られる夢という映像にも色が付いている。だからこれと同様の原理が覚醒中にも働くとすると、今見ているモノクロテレビの「白鯨」をその場で色付けして覚えることも、なにかの脳の回路の混線の結果、起きえたのかもしれない。子供の頃は、こんな風に些細なことで良いのなら、なんか不思議なことがいくつか起きていたよな。

枇杷の実がたくさん生っていました。散歩の途中に何本か見かけた。枇杷は不吉だから自分では育てない方がいい、なんて話も聞いたことがあるけどそういう迷信というか言い伝えってあるのだろうか。久しく枇杷を食べたことがない気がする。だから枇杷がどんな味だったか思い出せない。