どこを撮るのか

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夏のような気温だそうだが、湿度がそこまで高くないのだろう、歩いていてもさほど苦しくはならない。術後のリハビリ目標を守って、実はまだいろいろと通常の身体ではないところもあるのだが、こうして毎日外を歩いている。テレワークも徐々に復帰しているので、スケジュールの空いているところを狙って歩く。

2005年頃にコンパクトデジタルカメラが普及を初めて、画素数が300万、500万、800万・・・と半年スパンくらいで劇的に増えていき、私は当時画素数が600~800万を超えるとフイルム並み以上の解像になると勝手にある数式をもって自分なりに算出していたので、あっという間にデジタルカメラに主力カメラを変更した。というか、コンデジで撮れる写真の革命性、即時確認(とくに失敗しがちな夜景などもその場で結果を見ながら何度もトライできること)、深度の深さ(ニューカラーみたい)、マクロ性能(目の前までピントが合う)、液晶画面(夜でも苦にならない構図設定とコンパクトカメラでありながら液晶はTTLファインダー同様視差がない)、そして、カードの容量にもよるが、一日に300枚でも500枚でも撮れるということにすっかり有頂天になっていたと思う。さらにその頃に須田一政写真塾というワークショップに行きはじめ、毎月毎月メンバーの写真をトータルでいえば数千枚見て、そこから「斬新さ」「変」「見たことがない」などを写真の肯定のキーワードとして評価選択する須田さんの写真の見方を知って驚いた。という二つが同時期に合致して、どこの街を歩いても、次から次に撮りたい場所や場面や物に出くわす感じだった。それは茅ケ崎市内を散歩していてもまさにそうだった。

ところが最近その茅ケ崎市内をコンパクトデジタルカメラ(やときにはミラーレスカメラ)をぶら下げて同じように散歩しても、どうもあの頃のようには撮れない。撮るところを見つけることに必死になっても見つからない、そういう感じがするのだった。

何日か前のブログに書いたように街の構成要素のなかに占める自分が懐かしいと感じるところが減っているから撮りたい動機が発令される回数が減ったのかもしれない。あるいは、そんなことではなくて、長年続けているこの行為に自分では認めたくないがマンネリとか飽きが生じているのかもしれない。そして一番怖いのはそういう撮りたいところを見つける感性そのものが衰えて、撮るべきところが見えないのかもしれない。さらにはいろいろな権利が主張されるなかで安易に写真を撮ることに抵抗があるのかもしれない。

上の写真は茅ヶ崎駅の南側にあるバーのある風景です。これだってこのバーの方に断って撮っているわけでもないしここにアップするのに承認をもらっているわけでもない。いろいろな解説を読むと「建物の肖像権は基本はないし、ただしその建物になんらかの観光や歴史的価値がある場合はそういう権利が発生している懸念はあるものの・・・」みたいな曖昧な書き方がされている(これだって数年前に読んだことだからいまは厳しくなっているだろうか)。

でも写真を撮る方は悪意もなにもないですね。きれいな色のバケツ、きれいな色の壁、きれいな色の柱、その組み合わせに日が当たりのほほんとした、武田花の古い写真集「眠そうな町」に写った一瞬のようなゆるやかな時間を感じただけです。武田花の写真集はモノクロで、発刊されたころは、新しい写真だな、よくここに目を向けたものだな、とずいぶん感心したものです。でも今見ると、当時の感動はなかなか蘇らない。感性が衰えたというより最初の驚きがもう二度目三度目・・・百回目と写真集を捲るうちに蘇らなくなったということなのだろう。人間の「慣れ」はいいこともあるけど、なんか勿体なく働くな・・・

バイアンという店名が写っている。フォントが昭和っぽくていいですね。池波正太郎の書いた仕掛け人藤枝梅安シリーズを思い出す。二十年以上前に一気に全冊を読んだものです(その後たぶん売ってしまったけれど)。梅安と一緒にいる相方の男はなんと言ったっけかな?××さんだったっけ?徳さんとか安さんとか?彦さんかな、その二人がちゃちゃっと酒の肴になるような料理をするところが魅力的だった。

いまNHK沢村貞子料理日記って言いましたっけ、短い時間の料理番組があるけれど、あの番組のカメラワークやボケ味を生かした表現は美しいと思う・・・脱線。

食べログを調べるとこの店は(コロナ禍で?)ナポリタンのテイクアウトをやっていると書いてあった。写真を撮った縁もあり、今度買いに行こうかな・・・