たまたま七年前

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一番古いハードディスクを気まぐれでPCにつないでみた。コンパクトデジタルカメラで写真を撮り始めたのは2003年頃だったのか、それ以前にも撮っていたけれど画像データをちゃんと保管していないなかったのかは不明だけど、そのHDDには2003年からのデジタルカメラで撮った画像データが残っていた。それから、その頃及びその後もときどき、フイルムカメラで撮った写真はフイルムスキャナーで読み取ったデータが保管されていた。ISO400のネガカラーフイルムを1970年代に発売された一眼レフカメラレンジファインダーカメラに入れて撮ってある写真。夜に撮った写真もたくさんあるが、露出アンダーだったりノイジーだったり、なによりぶれていることが大半だ。いま同じ夜に最新のフルサイズMLカメラで撮れば手持ちでもなんなくぶれのないきれいなスナップ写真が撮れることだろう、と思う。しかし写真を見ていて思うのは、そんな風に露出アンダーだったりノイジーだったりぶれている写真から受ける「感じ」は、そういういわゆる失敗成分を含まない写真よりも、こちらの(鑑賞者の)気持ちを揺さぶることがはるかに多いということなのだ。まるで不完全な心が、不完全な写真の失敗要素と呼応して共振してるようなのだ。

完全ということがあるとすれば、それが完全であると汎用的に評価できる基準があって、それに則っている。とすると、そこには振動というのか、個に対して個にそれぞれ異なって働きかけるような性格を有していないのかもしれない。とか考えると、必要なのは無意識的に纏っている不完全なのだが、フイルムカメラで撮れる写真は、それなりの準備(三脚立てる等々)をしなければ、その不完全が容易に現れている。でもそれは機械の不完全というか、撮影者側の「ちゃんと撮ることを面倒くさい等の理由で放棄」した結果の不完全だ。なのでコントロール下の不完全ではない・・・と考えるとこういう写真から心を揺すぶられてもそれはカメラマンの力量ではないのではないか?

いや、しかし音楽にしても文学にしても、不完全がもたらす面白さはたぶんあって、でもそれは演奏家や作家がコントロールしていないところから生まれている・・・気がするから、同じことだろうか。

上のは、七年前、2014年にフイルムで撮った写真。これを見て、そんなことを思いました。というか、またもやそんなことを繰り返しまた思いました、ってことです。