いつかの道

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大雨。自家用車で出勤。往路は横浜新道あたり、帰路は新湘南バイパスあたりで豪雨になる。往路で聴いていたAMラジオ、今日は金閣寺が炎上した日だと「今日は何の日」コーナーが告げている。それから、今日は「うどんの日」だとも。ここ数日、あまり写真を撮っていないので、また、古い写真からここに挙げる写真を選ぶ。特別な風景でもなく、有名な観光地でもなく、なにか注目すべき事件や人が写っていることもなく、古い写真とは言えこれはいまは見かけないなという何かが明確に写っているわけではない。たぶん日常の移動(通勤とか通学とか日常的にときどき行く店まで向かうとか)の自転車が二台写っている。こういう風に日常らしい一瞬、ありふれた一瞬が写し止められた写真を見ると、なんだか哀しくなるのは何故だろう。過去にあった日常の一瞬、それが連綿と時間軸の中を引き継がれて、同じような一瞬が現在もあるだろう。なにかそういう時間の流れ、そんなことしょっちゅう思い至ることではないのに、この写真を見ると、時間がたくさん流れたことを思う。具体的に今は見なくなった古いなにかが写っていて時間の流れを感じるのとはぜんぜん違うところからアプローチされた「時間の流れ」なのだった。例えば、何回か前のオリンピックの感動場面の写真をいま見たら、そのときそこで起きた感動を呼んだ競技の内容がこうだったとか、そういう具体的なところに降りていく場合、懐かしいとは感じてもこの写真で感じる漠然としたような哀しみは呼ばない気がする。写っているのが日常の瞬間だったからこそ、それから妙に写真が右下がりに傾いていることも寄与しているかな、その不安定で動的な感じも、そういったことから哀しみを感じるのではないか。