水平線の雲

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「この町からは海が見える。夏になると水平線の上に入道雲が並ぶんだ。なのにこの町の上には入道雲はやってこない。だから遠雷は聞こえても、この町には夕立は来ない。嘘じゃないさ。夕立が来れば少しは涼しくなるって話は聞いたことがあるけれど、夕立が来たためしがないから涼しくはならない。夜になってもいつも町は熱を持ったままだ。碌なもんじゃない。」なんて言う嘘の話(上記のかっこ内文章のうち「なのに」以降はぜんぶ嘘だ)をでっちあげて誰かに話したから、以来、水平線に並ぶ入道雲の写真を撮ろうと思うようになった。嘘の話でもその水平線に並ぶ入道雲の風景だけは本当だと思っていたが、気にするようになってから夏になって海に行くたびに水平線を見るが、なかなかそんな風景には出会えない。下の写真は今朝だ。水平線の上にちょぼちょぼとだけ並ぶ雲は迫力が足りず思い描いている風景とは程遠い。どうやらかっこ内の話を思いついたときに、その風景だけは本当だと思い込んでいたが、それすら嘘の(妄想の)風景だったのか。いや、午後になればちゃんと入道雲が水平線上に並ぶのか。そうでなければ嘘の話である上に嘘の風景がその嘘話の発端だったことになる。最初にその嘘の話を思いついたのはもう四十年くらい前のことだ。夕立が来ないなんて言うのは嘘で、実際にはたまにだけれどちゃんと夕立は来るだろう。

今朝は家を6時に出て自転車で海まで行って9時頃に戻ってきた。写真は例えば上のような工場のあいだの下り坂を撮ったりしました。そのあと相模湾河口の海まで行ったので上のようなことを思い出したり考えたりしつつ下の写真を撮った。

古本屋に行くときに買いたい本を先に決めていくとなかなか出会わないものだ。そういう買いたい本が明確であるときはネットで探して注文するとか古本屋に電話をして問い合わせ確保しておいてもらう方がずっと確実だ。それでも古本屋に行くのは、気に入る本に出会うことを求めているからでその一期一会的な本との出会いが嬉しいからだ。かといってその出会う本がなにかは事前には知らない。写真も撮る前に妄想してこういう写真を撮ろう!と決めたときは、それを成功させるためにちゃんと様々な調査をしたうえで何度も通ったり撮影ポイントや日時を測ったりそのためのレンズを準備したりしながら妄想から用意周到に実際の写真に置き換えるという楽しさがある。一方で、妄想はあまりせずにたまたまそこへ行き、自分の心の赴くままに偶然的な出会いを撮っていくという写真がある。しかも一人のカメラマンには、その両者(事前妄想の実現を目指す写真となにも期待せずただ出会ったところを撮り押さえていく写真)の撮影動機がごちゃまぜにあって、それ以外の撮影動機もさらに加わって、でもいちいちそんなことは意識せずにただカメラを持ってどこかへ出かける。

そんな感じ。早起きして出かけると帰宅後に眠くなりました。

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