雨の音

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写真と文章はまったく関係ないです。今朝は雨の音で目が覚めた。台風が近づいているそうです。

数日前のブログに、ファミリー動画をフイルムの8mmシネカメラで撮り現像が上がってきたリールフイルムは映写機を使って壁に吊るしたシーツなどに投影して、夜、ファミリー鑑賞会をして楽しんでいた、そういう時代から現在のスマホで簡単に動画が撮れて、かつ即鑑賞できるように技術の進化に伴って革新が続いてきて、これは便利になったというべきことだが、いろいろ面倒だったときに動画を見るという最後の目的に行き着くまでのあれこれって、最終目的とは関係ない「過程」に過ぎず、すなわちすべて意味がなかったのだろうか?と言うようなことを書きました。その延長で考えていたのは、当たり前のことに過ぎないのかもしれないけれど、結局この目的に至る「過程」が面倒だったりそこになにか技術が必要だったり(誰でもが簡単に出来るわけではないということ)時間が掛かったりすることで、その目的を毎日のように簡単に実行できない(例えば上記の動画鑑賞で言い換えるとファミリー鑑賞会は毎日のようにやることではなかった場合が大半だろう)、その簡単には実行できないということ故にその実行行為(例でいえばファミリー鑑賞会)は日常に属せず非日常側にあったのだろうということです。ハレとケを調べるとハレは非日常でケは日常と説明されている。すなわち便利によっていろいろな行為を皆がやるようになる、イコール「すそ野が広がる」と言うことは、ハレからケ、非日常から日常に取り込まれるということで、便利ということの持つベクトルはハレからケの方向なのではないだろうか。そういうことを考えました。そう考えると、ハレに属していた不便なころのある行為はそのハレの頂点(ハレ舞台。例でいえば親戚がお盆に集まった夜に行われたファミリー鑑賞会)で非日常としての喜怒哀楽(特に喜や楽)をピークに持っていくための助走というか前奏というのか、その準備動作(便利になることで取り除かれる行為)がピークをもたらすために必須のことだった。しかし、ケに属することが「出来る」ようになったいまとなっては、そういう助走とか前奏は取り払われても支障ないことになった。そんなことを考えたのです。

写真撮影や動画撮影の行為がハレに属していたときに被写体もハレに相応しい記念写真や絶景風景やハレのイベント記録を撮ることは相性がいい、というか写真を撮るとはそういうこととイコールだっただろう。一方でそういう撮影行為がハレの行為だった頃にケである日常を撮った人たちはだから稀有であり、まぁ言い方が適切かどうかわからないけれど「変わり者」だったかもしれないし、それこそ「道楽者」とか「富裕層の趣味」だった。ハレの機械だったハレを記録するカメラしかない頃、ケを記録する機会もハレを記録するカメラを転用するしかなかった。だけどいまはケはスマホで記録すればほぼほぼ足りてしまうからカメラという撮影専用機でわざわざケを記録することは全体傾向として減ってしまう(すなわち十年前にはあれだけ売れていたコンデジスマホに置き換わりケに吸収される)ということから推測できるのは、スマホではなくミラーレスでもミラーありでもいいけれど、そういう撮影専用機械である大きなカメラを持ち出すときに一番相性が良いのは以前よりさらにましてハレの撮影ということになっているのかもしれない。でも、写真におけるハレとはなにか?と言うことになると実はケに含まれる決定的瞬間はハレが顔を出す一瞬かもしれないし、一方でわかりやすく絶景風景とか絶景夜景もハレとなる。そういうベクトルに逆らいかつ新しい驚きを提示することが芸術なのだとすると、ケ(イコール同時代的な暮らしの変化を含む)をハレの機械でケの機械では写らないハレの機械の優位性を生かして撮影することが同時代的な芸術行為なのかもしれないが・・・しかしそういうことすらすでに歴史に刻まれていて例えばウォーカー・エバンスの「アメリカン・フォトグラフ」とか、カラー後はショアの「アンコモン・プライス」とか。誰も撮らなかったところを撮ることの難しさはますます増しているんだろう。

ということを考えたのだけれどこれだっていくつかの仮定があり、他の可能性をとりあえず「さておいて」と排除しているのはわかっています。例えば最近スマホで撮った写真をすぐには鑑賞したりシェアしたりできず、じらす(待たせる)時間を間に設けるようなアプリがあるらしい。こういうことが受け入れられるのは「なんちゃってむかしのハレの機械としてのカメラ」「ケを強引になんちゃってハレに変える試み」と言うことなのだろうか。