ノー・ルック撮影

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そんなわけでまた2017年の8月の写真を「蔵出し」してみました。藤沢のベッカーズだけどここもいまはもう改築されたかもしれない。

吉田篤弘著「流星シネマ」(ハルキ文庫)を読んだ。数日前に8mmシネカメラの上映会のことを書いたけれどまさにそこに書いたような上映会の様子が小説に出てきた。あるいはノー・ルック撮影のことが書かれていた。ノーファインダー撮影とも言うだろう。小説にはノー・ルック撮影で8mmシネ動画を撮った新聞記者の男がこう言っている。

「私の目が見たものである必要はナイのです。私の目が見たものは私のブレインにしっかり刻まれていますから。そうではなくて、自分の目とは別のもうひとつの目~ナント云ったらいいのでしょう~第三者の目と云えばいいのでしょうか、そうした、もうひとつの視線が記事を書くためには必要なのです」

あるいは

「私の目で見たものは、私の考えにとらわれてしまいます。そうではなく、そのときたまたまソコに居合わせた鳥や虫やノラ猫の視線がとらえたもの~ニンゲンの思惑から外れた視線が大事なのです」

そして、それに呼応して別の登場人物の女性が

「わたしの思惑を超えたところにある視線ということ。わたしはずっと、それを身につけたいとあがいてきた。これは、わたしだけの考えだけど、わたしの好きな詩人は、皆、そのあたりをわきまえていた、というか、彼や彼女たちは、そのもうひとつの目~もうひとつの視野を先天的に携えてこの世に生まれ出てきた」

う~ん、なんかよくわからないようなわかるような。

ノーファインダー撮影の面白さが、撮りたかった主被写体的なものはたいていは画面に、真ん中とは限らずずれて端っこになっていることもあるけれど、たいていは画角に入っているけれど、その主被写体ではない周りの状況や背景はきっちりとフレーミングされてはいないから、とくにそのあたりには偶然が写っている。偶然に写ったものがもうひとつの目とか視線と感じたことはないけれど、無意識的なものがフレーミングされることを意識的に後から見直して自分の写真なのに自分が撮影時に意図していなかった偶然の面白さを感じることは間違いなくありますね。

上の写真にはノーファインダー撮影をしている私が写りこんでいるようですね。右手でカメラを持ちぶれないようにカメラを左の肩の付け根辺りの胸に押し付けて保持してシャッターをだいたいの方向に向けて押しているようです。

それからこういう店の中で一人でいる場面を撮りたくなるその背景にはたぶんエドワード・ホッパーの絵なんかが刷り込まれているんじゃないかな。