生家かもしれない家

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上の写真は昭和32~33年頃に舞鶴市の中舞鶴郵便局を背景にたぶん余部下公園という場所で昼休みにバレーボールで遊んでいるこの写真より後方にあった舞鶴共済病院中舞鶴分院の職員たちを撮ったものだと思います。父がアルバムに貼ってあった写真で左下に父の字で「ひる休」と書いてあります。もしかしたら郵便局の右側がいまの東舞鶴駅から盲腸のように伸びていた支線の終着の中舞鶴駅なのかもしれません。私が会社に入社した1979年にも昼休みになると会社の中の建物と建物のあいだの通路のちょっと広いところ(工場が併設していたのでトラックヤードなどもあって広いコンクリートの場所があったのですね)に食事を終えた社員が十人くらいかな、輪になってバレーボールをしていました。ほかにはキャッチボールやソフトテニスをしている人たちもいたし、もちろん居室で棒アイスを食べながらおしゃべりに興じたり、机に突っ伏して昼寝をしている連中もいました。バレーボールがいつから普及したのかをちゃちゃっとネットで調べると、昭和30年くらいには戦後の日本人に比較的安価にスポーツを楽しんでもらうという主旨で普及が促進されるとともに国際大会も開かれて日本が参加するようになり、それまで日本で主流だった9人制から6人制へと移って行った頃のようです。そういう歴史を知ると写真を見て「なるほどねー」と納得度も上がりますね。父がバレーボールをしていたかどうかはわかりませんが。私はこの共済病院中舞鶴分院で生まれました。父はその病院に勤めていて、たぶん病院の社宅いうか従業員の宿舎に住んでいました。

2005年だからもう16年も前の9月に東京駅からEF65がけん引するブルトレの「出雲」号に乗って翌朝早くに鳥取駅に着き、砂丘鳥取市内観光をしてから午後に城崎温泉まで鉄道で移動し城崎泊(一人で日本旅館に泊まり部屋でカニ料理を食べました)、翌日に鉄道で東舞鶴駅へ行き歩いてこの中舞鶴の、自分には何一つ記憶が残っていない生家のあたりを父の撮った写真をたよりに歩いてみました。下の写真はその旅行のときに自分でも写真に撮ったいまは撤去されて駐車場とテニスコートになっている中舞鶴分院のすぐ横になぜかいまも(2005年に行ったときも残っていてびっくりしたが今のグーグルマップ(記録されたのは2018年6月)でもまだ残っていた!)古い職員宿舎だったと思われる木造平屋が残っていました。雑草が生い茂り、誰か住んでいるわけではなさそうでしたが・・・かといってドアや窓が壊れているわけでもなくなんとなく維持管理はされている感じでした。よく見ると二軒長屋なのかもしれません。父が昭和32年頃に撮った写真にもこの平屋が写っていて、もしかしたら・・・この家の写真の手前の玄関を入った家か、写真の左側にちょっと見えるもう一つの玄関の家か、そのどちらかが自分の生家なのかもしれないのですがそこまではわかりません。

グーグルストリートビューで世界のどこでも旅できる、というか、まぁ見に行けます。だけどではどこかへ自由に行ってみていいよ、と言われてもすっかり困惑してしまいどこを見たいかわかりません。結局、自分の記憶やらこういう古い写真やらの「自分に関係ある国内の場所」を見に行き、せいぜいそこから少し道筋をたどって知らない場所を探ってみるって感じです。まぁそのうちに思い切って海外の街をストリートビューで散策することもあるのでしょうけれども。

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