KYOTOGRAPHIE day1

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9月の中頃から京都国際写真祭/キョートグラフィーが始まっている。土日に休暇をくっつけて今年も写真展巡りのために京都にやって来た。建仁寺両足院はここのところ毎年、キョートグラフィーの会場になっている。美しい庭のある建仁寺塔頭寺院。ここで展示されていたトマ・デレーム「菜光~ヴェルサイユ宮殿の古代種」と八木夕菜「種覚ゆ」の二作品。もう二十年か三十年前に、キューピーの宣伝に野菜をその野菜が収穫された土地の地面の上に置いて撮ったシリーズがあって、いやずいぶん前のことだから記憶は不確かなのでもしかしたらカゴメとかデルモンテだったかもしれないですが・・・とても惹かれたことがありました。トマ・デレームは解説によると「ヴェルサイユ宮殿の歴史ある「ポタジェ・ロワ(王の菜園)」で栽培が続けられている、希少な古代種の野菜をポラロイドSX70」で撮影。生命の儚さや賢さ、根源的な力を私たちに語りかける」とある。分厚い写真集も置かれていたので、すべてのページをめくる。収穫された野菜は淡いライティングを受けて実の持つ内に秘めた瑞々しさをその福福しいような形状や表面のてかりをもって示している。収穫された果実や野菜は切り離されて掌に載ると、そのときかならず予想以上の重さを持って、なにか「静物」なのにぷるぷると生きて震えているように思えるものだ、ということを思い出す。それにしてもなんでSX70なのだろうか?写真作品においてカメラと被写体とカメラマンの意図の関係は深くて、なんらかのそうであるべきという作者の思いがSX70を選ばせているんだろう。それは鑑賞者に対してというより、被写体である野菜や果実とカメラマンとの関係構築において、シャッターを押して徐々に画像が浮かんでく、目の前にある実物の被写体と浮かんでくる像を「見比べる」時間があることで、なにか(相手を擬人化して、と言うか意志のある感じで)野菜や果実に自らとその写真と言う結果について相談する感覚のコミュニケーションが取れる。撮影現場を想像したらそんなことが浮かびました。

ほかの会場に向かう途中に昼時になり、鯖寿司のいづうの前をちょうど通りかかったこともあり、そこで昼をとる。思い返すに、私が小学生のころ、父はバッテラや鯖寿司が大好物だったけれど、わたしはもっとも嫌いな食べ物のひとつだった。同じく父は鰯を蒸して生姜醤油で食べるのが好きで、母や妹も一緒に食べていたが、わたしはその蒸す臭いからして駄目だった。それがいまや鯖寿司を食べに店に入るのだからずいぶん食の嗜好は変わるものですね。でも量は食べられなくなっても、好きだったものが嫌いになるという方向はあまりなくて、嫌いだったものが食べられる方に移行する(なんでも食べられるようになっていく)ものなんじゃないかな?鯖寿司はねっとりと昆布で回りを〆てある。それをくるりとはいで、昆布は昆布で食べるけど、鯖寿司は昆布を外してから食べる。肉厚で酢飯とあいまって良き味。

その後いくつか写真展を観てから、三年ぶりくらいでエレファント・ファクトリー・コーヒーのカウンター席に座り、数日前から読み始めた井伏鱒二荻窪風土記を読み進むる。荻窪あたりがまだ農地と武蔵野の原野だった頃から、戦争の時代を越えながら、どんどんと都市開発が進んできた、そこに住まいながら友人知人になった昔からの住人や近くに越してきた文学仲間や、隣家の家族や、そういう人との私的な交流を軸にその開発の様子が伝わってくる。随筆。はらはらする物語が起きるわけでもなく、どきどきする恋愛が描かれることもなく、どちらかと言えば淡々としているがよく読むと、みななんとなく主張を持って虚勢を張ってでも、自分というものを曲げずに生きている感じもする。

それで、中島みゆき作詞作曲の「永遠の嘘をついてくれ」の歌詞を思い出す。若いころそれが無理とも知らず、熱く語った夢なんて、みなぜんぶかなうことなんかないけど、誰もみなもう敗れたとか諦めたとか言わないで、いくつになっても虚勢を張っていてくれ、その虚勢が嘘でも永遠の(死ぬまで)負け犬の言葉を言わなければそれはそれでかっこいいではないか・・・・。そんな時代の香りが、そんなことは意識せずに書かれたであろう随筆のなかに、時代の当然として底に流れている。

15:00リニューアルしてはじめて京都京セラ美術館へ。東山キューブの屋上ボードウォークのような広場に出てみたらそこには誰一人いない。ちょうど雲が切れて西日が差す。雲の動きに従って日の当たる場所が動いていく。少し遠くの山並みをなめるようにその日の当たる場所が山肌を照らしつつ動いて行った。

夜は大衆中華の鳳泉へ。半チャーハン、シューマイ、豚肉天ぷら。食べきれず持ち帰りにする。単車に乗って一緒にツーリングをしてきた若者四人か五人、店の前に単車を停めてよいかどうかで店の人とやりとりをしていたが、なにか話が付いたのか、単車をどこに停めたのかは知らないがどやどやと入って来る。それを潮時にこちらは店から出た。

夕暮れ時。高校生のころに聞いた誰かのアルバムに入っていた短い曲にこの時間のことをうたった曲があった気がするな・・・空がすみれ色・・・なんて歌詞がある。でももうそれが誰のなんていうアルバムに入っていた曲なのかはわからない。小品だけど好きだったのに。閉店した三月書房の降りたシャッターには全日休日みたいな張り紙。村上開新堂でロシアケーキをいくつか、気まぐれに買ってみる。古書と中古レコードの1000000トン・・・(なんちゃら)に上がり、本の背表紙を眺めるがなにも買わない。この店に来るとなんとなくいつも本を買ってしまうのだけれど今日は何故か手に取る本も見つからない。もう店じまいしたなにかの店のなかに地球儀があるのがぼんやり見える。もう自分の眼より使っているミラーレスのデジタルカメラの方がよほどちゃんとピントを合わせぶれずに写真を残してくれて、そこに写った像を見ることで今撮ったそれの詳細がわかる。でもその場でいちいち撮った画像をチェックもしないから結局後日になってわかる。

後日になりこれがやはり地球儀であったことがわかったが、太平洋を南極側から見上げるようにこの角度で撮るとニュージーランドは写っているものの、本当に地球は海だけの星のように見えるのだなあ。きれいな青のなかに右端に写っている北米と南米の大陸は瘡蓋のようだ。