大井町あたりを

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文化の日。大森、大井町、蒲田、あたりを気まぐれに歩いてみる。歩いていると汗をかき、着ていた白いカーディガンを脱いでデイバックにしまった。写真を撮るけれど、新しい発見をしてワクワクして撮っているのだろうか?そういえば、十年くらい前だろうか、福岡のどこかのギャラリーで東松照明展をやっているのに行きあたり、会場で東松さんが話しているビデオが流れていて・・・この話は何度かこのブログに書いたかな・・・毎日、決まりのようにカメラを持って家の周りを歩く、そのときには犬が電信柱に小便をするように撮っている・・・もう微かな記憶だから私が記憶を捏造しているかもしれないけれど・・・そんなことを話していたようだ。東松さんの犬の小便がどれだけのワクワクや発見を伴っていたのか分からないが、犬にとっての小便のアイコンである電信柱のように、なにかこういうドアとか食品サンプルとか、あるいは古い車とかポスターとか、なんだか私が撮りたくなる被写体はこういうところです、というのが三十か五十か、そんなにないのかな?二十とか?あって、それに合致するところに自動的にカメラを向けているだけで、もう機械的な行為であって、なかなかワクワクや発見など伴わないで、ちょっと極端な比喩をするとすれば、たばこの吸い殻や空き缶などのゴミを黙々と拾って歩く掃除人のノルマのように、気まぐれで歩いている街の気まぐれで曲がった路地でシャッターを押しているだけなのではないだろうか。そんなことを言い出すと、誰かが撮った写真を何千枚か何万枚学んだ撮影ロボットを街に放つと、そのロボットはその誰かに成り代わってたくさんの写真を撮ってくるんだろう。だけど時代の変化が徐々に起きると、ロボットに新たな学び(上記の「撮りたくなる被写体パターン」の追加行為を学びと書きました)がないと、だんだん撮れなくなる、ロボットもさ迷い歩くだけで枚数が減ってしまう。と、こう書いてくると、私自身だって、この学びを拒否しているからだんだん撮れなくなるのではないか。でもここで言う学びは「撮りたくなる被写体のパターン追加」ってことだけど、そういう新たなワクワクするパターン、それはそこを撮りたく思う自分のポジティブな嗜好というか思考というか志向によるから、その「しこう」が生じることが大前提。その生じる源が「いろいろなことへの興味」なのだとすると、それは若さというのか、なにかのバロメーターだ。

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