暮れる頃

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1/4快晴、昼は気温が12℃ほどまで上がり陽だまりはほろほろと暖かい。しかし午後4時ともなれば日は傾き、風も出てきて、もうさきほどまでの安らぎはどこへ、すっかり冬の寒さがひたひたと寄せてくる。下りの湘南電車(東海道本線)は多摩川の鉄橋を渡る。向こうの三棟並んだ高層マンションには西からの日が当たり、銀の色に輝いているが、川崎の街のビル群に日を区切られたのか、もうこの河川敷には日差しは届かず、ただ暗くなるのに任せてしまったその枯草色の広場に、最後まで帰りそびれている親子が遊んでいる。母の黒い服が浮かび上がり、少女は消え入りそうに写る。もう帰らなくては、その寂しき空間に取り込まれてしまわないうちに。JR鉄橋に並んでいる京急の鉄橋に、走って来る赤い電車も今日はいない。高層マンションの上に浮かぶ月もない。寒風のみがすすきを揺らしている。

カラー画像から色を抜いてモノクロにしてみる。そのモノクロ画像を眺めているうちに西脇順三郎の詩集「旅人かへらず」を思い出す。あの詩集を読んでいるときに自分の心に起きる寂寞とした感じ。久しぶりにその詩集を本棚に探し、見つけ、手にしてみる。久々に読むと、人も花も、それぞれに生きて、それぞれに永遠ではなく、ただ流れに身を任せ、その健気さも、その小ささも、そのほの暗さも、その生命力も、それみな寂しいこと。そんな悲しさの総体のようなことがすっぽりと私を包んでくる。そんなものに包まれて寒々しいだけかと言えば、そこに諦観のようなことが起き、その先に美を見たいと思うのだった。そしてなにより、私はこの詩集から感じることが、(稚拙だが)この写真から感じるような冬の夕暮れの気分だという覚えがあったのだが、いざ読むと、それは春が多く、夏も秋も、冬はむしろ少なく、たくさんの花や鳥の名前が出てくる詩集になっていることをあらためて知る。それでも、読んでいると、全体としてはこの冬の暮れどきのような「感じ」がするのだ。

十年くらい前だろうか、なにかの雑誌の本の特集号で(記憶が正しければ)いしいしんじ氏が西脇のこの詩集は最初に出た昭和22年の東京出版の本で読むべきだと言って(書いて)いた。それを読んで、私もその本で読みたくなり、にっぽんの古本屋で探して手に入れた。その冒頭の「はしがき」で西脇順三郎はこう書いている。

『(前略)ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出来ない割り切れない人間がいる。

これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考える。

この「幻影の人」は自分の或る瞬間に来てまた去って行く。この人間は「原始人」以前の人間の奇蹟的に残っている追憶であろう。永劫の世界により近い人間の思い出であろう。

永劫という言葉を使う自分の意味は、従来の如く無とか消滅に反対する憧憬ではなく、寧ろ必然的に無とか消滅を認める永遠の思念を意味する。

路ばたに結ぶ草の実に無限な思い出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思われる。(後略)』

冬にはセンリョウやマンリョウやアオキやナンテンや、たくさん赤い実が生ります。あれは冬にこそ幻影の人が永劫についての思いを携えてやってくる道しるべなのではないか、あるいは冬を越えて春に行き着くための灯りだろうか。・・・ずいぶんおセンチになりました・・・失礼いたしました。