如月

f:id:misaki-taku:20220203211732j:plain

f:id:misaki-taku:20220203212242j:plain

二月、如月。まだまだ寒い季節のため更に衣を重ね着する、が由来だそう(ウェブでちゃちゃっと調べた)。昼、すぐ近くのコンビニに行ってみると、恵方巻がたくさん置いてある。食べる方向は、北北西微北で、何もしゃべらず黙々と食べるという決まりもあるとのこと、これ、会社の知人が教えてくれた。子供の頃、節分に恵方巻を食べることは今ほどメジャーではなかった。少なくとも私の家ではそんなことはしていなかった。なぜか寂しい夕暮れだった。日が沈む少し前の時刻、自家用車で相模川河口近くのスポーツ公園の駐車場に車を停めて、相模川の河口を眺め、海沿いの遊歩道を歩いてみる。ちょうど日が沈む17:05頃に、ちょっとだけ人が増える。たぶん近所の方が、その時間に合わせて犬の散歩に出たり、スマホで夕焼けを撮りにきたり。増えるというのは見まわすと三人とか四人の人影がかろうじてぽつぽつ見えるところに、もう三人か四人、そういう人が増えるということだ。そしてみんながひとりぼっちなのだった。犬の散歩やスマホ撮影という目的がわかりやすい人がいる一方、ポケットに手を入れて立ち海をぼーっと見ている人がいたり、大きな石(台風の日にでも海底をごろごろ転がって来たものなのか)になにをするでもなく座っている人もいる。私はと言えばAPS-Cサイズセンサーのミラーレスカメラに標準ズームレンズをくっつけて、そういう人たちを観察してはときどき、そういう人たちや、そうではない草やら鳥を写真に撮る。写真を撮ることはどこを撮るかとあたりをきょろきょろ眺めては、写真に「なりそう」なところを探し回るということの結果のシャッターである。この「きょろきょろ探し回る」というところがなんだかなぁ、ちょっと他の人が海に来る目的よりも、目的の中身に「品位がない」というのか「欲にまみれている」というのか、そういう感じがしてしまう。いい写真を撮りたいという気持ちがすでに欲なのだ。スマホで夕焼けを撮るということは決めた自分のちょっとした習慣と楽しみをきちんとこなしているのでそんな感じはしないのだが、この「きょろきょろ探し回る」のが自分のしてることなのに、どこかで「だっさいなぁ」と感じる。海に来ているほかの人たちが海という場に属しているのだが、私もその同じ海にいるのに、ほかの人たちと違うところにいて、実は海という場に属しておらず、なんだか狡猾な場所から覗いているような気がするのだ。だけどそうして写真を撮っているわたしも彼ら同様にひとりぼっちなのだ。

 今日の月例は1.9だそうです。みかづき ではなく ふつかづき。

f:id:misaki-taku:20220203215451j:plain