陽の光の効果

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 国道一号線を、東海道線でひと駅分、歩く。ときどき国道一号線から路地に折れてみて、また戻る。ここ数日は雲の多い日が続いているが、今日は、歩き始めたときは快晴だった。廃墟となっている(ように見えた)ビニールハウスとその敷地を囲むブロック塀(一部崩落)のある光景にも等しく陽が降り注いでいる。すると廃墟がどう見えるのか?は、人それぞれなんだろうけれど、廃墟だから「荒涼」「寂寞」「無常」というような単語に直結はしない感じがある。では別のなんと言う単語が、例えばふさわしいのだろうか?もしかすると陽に照らされることによって、そこが今ある光景として、このビニールの皺とか、枯れた木の枝の形、あるいはブロック塀の汚れ方や濃いコントラスト、それによってそこがなんであれ、照らされて美しく見える。そのことが「荒涼」ほか上記のような単語を見えにくく隠しているだけなのか。あるいは、陽に照らされるということが、ここに流れた歴史、時間の流れ、をクローズアップして、ここを見るのは初めてのことなのに人がここに営んできたという誰かの思い出のようなことを一般化して感じることで、廃墟であっても陽が差していることで懐かしさを感じるのだろうか。理由を考えても明確にこうだと判らないままこうして写真を撮っているわけだが、少なくとも出来立ての新品のものを撮りたいとは、私はあまり思わない。そこに人の痕跡が残り、新品から使用済み、中古、になっていくその痕跡を見ているのだと思う。

 そのまま歩いているうちに、だんだん雲が出てきた。平塚市の駅から北側に広がる商店街は、私が小学生中学生の頃の学区で、そこにあるまたはあった商店の子供たちに大勢同級生がいた。床屋、魚屋、落花生屋、もう一軒の魚屋、洋服屋、よろず屋、テーラー、眼鏡店、牛乳屋、米屋、八百屋、練り物(さつまあげ)屋、・・・そんな商店の子供たちが友達だった。そんな店の並んでいた通りを歩いてみる。ほとんどの店がもうなかった。上記のうちのひとつかふたつだけ。そして、誰か同級生に会うわけでもなかった。会ってもわからないだろう。そんな散策のときにはすでに陽が陰り、弱いが寒風が吹く。シャッターが降りている店の前に、捨てられたコカ・コーラのロゴが印刷された冷蔵庫が置かれている。もし、ここに陽の光が当たっているところだったら、私は上記のビニールハウスのようになにかもっと懐かしさだったり人の営みへの思いだったりを感じるのかもしれない。けれど、この写真を見ると、今度は「寂寞」と言う思いが強くなってしまう。むかしは、駄菓子屋というのか酒屋(ほかの飲み物もある)というか、コンビニなんかまだない頃、そういう店に冷蔵庫があって、この上の取っ手を持ち上げるかスライドして冷蔵庫を開けて、コーラやほかの飲み物を買った。そして買ったそれを右側の楕円のところにある栓抜きで栓を開けた・・・のだったと思います、たしか。

 そこにあるビニールハウスの廃墟、そこにある捨てられた冷蔵庫。冷蔵庫にも陽が当たっていれば、もっと優しい気分になれた・・・のだろうか。

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