西野壮平写真展「線をなぞる」

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 テレビ番組「情熱大陸」(TBS系)で2/6に放送された写真家西野壮平さんの写真展「線をなぞる」を見に行く。ええと、こう書くと「テレビで知って、行ってみる」というように読めますが、それ以前から行くのを楽しみにしていた写真展であります。会場の品川インターシティにあるキヤノンギャラリーSは、インターシティーの一番奥の方のビルで、そこまでのあいだにこの上や下(の二枚)の写真を撮りました。80年代の最後の方だったかな、インターシティが出来たころに、この計画的に植樹された木々を見て、この木々は毎年どんどん上に伸びて行ったら、どうなるんだろうか?と思った。思ったことは覚えているけれど、では当初の木々がどれくらいの高さだったのかはもう覚えていないので、これがどれくらいからこのくらいまで伸びた結果の今なのかはわからない。だけど、上の写真のように、植木屋さんが枝の剪定をしているわけで、これで木々の大きさが計画時に定めた計画(が、きっと、あるのでしょう)に沿ってコントロールされているのだろうか。とここまで書いてなんとなくそうだったんじゃないかと思ったのは、わたしはもしかするとこの新しいシティが出来たときに、この木々が予定を「はるかにこえる」勢いでどんどん育って予定よりも高い階にまでその高さが伸び、足元は(夏には)うっそうと茂った上空の葉に覆われて暗くなり、もういろんな動物や昆虫や植物がはびこってしまい、昼休みになってもそんな暴走した森に行く人もいなくなり・・・といったことになったら凄いぞ、と妄想したような・・・

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 西野壮平写真展「線をなぞる」。西野さんの作品は、もの凄い枚数の写真をコラージュして作られている。

 フォト・コラージュと言えば、わたしはデビッド・ホックニーのコラージュ展を90年頃に新宿のデパート内のギャラリーで見たことがある。そのときに畳2畳とかだろうか?の大きなサイズに作られた作品に圧倒された。そのころはいまほど簡単に写真の大型プリントが出来なかった時代なので、そのサイズに驚いたのだ。その少し前に、そもそも作品の大きさで、写真は絵画に勝てない、と思ったことがあり、いま思えば、なんで写真と絵画をそんなふうに比較して競争するように見ていたのかは覚えてないが、そう思ったのがたぶん渋谷のbunkamuraで、ワイエスの絵を見たときだと思う。当時は同時プリントの価格が安かったこともありLサイズプリントは安価に手に入った。それもあって、私はホックニーを真似してその頃の数年間、ずいぶんフォト・コラージュを作った。そんなふうに遊んでいたのはせいぜいB0サイズくらいまでだったけど、それでも一枚写真より大きなことで全体を見る楽しさと細部を見る面白さの共存が出来る気がした。

 西野さんの作品で言うと、作品全体を構成する部分部分の「ユニット」というのかな、ある場面、たとえば、とある道を同じ方向に行く人を横並びでとらえるとか、吠える犬を何枚か撮ったのを集めてその動作を動画的に示すとか。そういうユニットを作るときの写真をつなぐ行為に、まず、ものすごい選択肢がある。(ユニットとなる一枚の写真が撮られたのが望遠レンズなら、画面周辺のゆがみが少ないから、写真をつなぐ方向もほぼ一つなんだけど)標準~広角になると、どこを重ねどこにゆがみを寄せて、どっちに隣の写真を向けるか、というようなアナログ的な選択が出来ることや、どこを重ねて消して、どこを繰り返して見せるかも自由に選べる、それ故、ユニット段階で結果は無限にあり、そこを選んで決めていくことに面白さがあった。そんなことも思い出した。すなわち「写真の端っこと端っこで同じ像をつなげる」行為でも、微妙にどう繋げたかの違いから、出来た結果が綺麗にまとまったりあたふたしていたりと変わる。

 それから、撮るときに、そのあたり一面を網羅的に撮り抑えたと思っても、つなぐとあいだにどうしても抜けがあったりしたなぁ。

 西野作品の部分部分を、そうかこう置くのか、とか、こう場面転換するか、とか、そんな自分のつたない経験を思い出しながら眺めるのは、とても楽しかった。そして、ホックニー作品や、それを真似していた私は、多くの場合、自分はある場所に動かずにいて、そこから四方八方を眺め回すように撮ったり、ときには焦点距離を変えたり、あとはその定点から、時間差をつけて被写体が動いた様子を(すなわち時間軸を)写したりしていたが、西野さんは、自身がひとつの作品を作るために動く範囲も時間も、動的に大きく変えていて、それだけ動きながらも、コラージュ全体を構成してる部分部分のユニットをどう置いていくか、どう場面転換をするかが自然に見える。ユニットを作るのに無限の選択と自由があり、そのユニットを組み合わせることにも無限の選択と自由がある。付け加えると撮るときにも無限の選択と自由がある。そうして出来た作品は、鑑賞者に自由な想像を提供する大長編小説のような壮大さになり、でもその大長編を構成するエピソード、西野作品の場合全体のうちの細部で起きている出来事やプライベートな記録、それを近くに寄って一つ一つ見る(大長編に書き込まれたいろんなエピソードの一つ一つを読む。あるいは連作短編集の一つの短編を読む)、というか、拾う感じ?そういう近くに寄り細部の物語を拾って、また引いて今度は全体の大きな流れを感じる、こういう視点の移動の楽しさが鑑賞者に与えられているのが楽しいのだろうなぁ。ある作品は書のようで、ある作品は洛中洛外図みたいで、ある作品は曼荼羅みたいで、ある作品は巻き絵だった。なんだか興奮して書いていて、読みやすい文章になってないですね。すいません(笑)

 (撮影OKだったので撮りました)下の作品は西伊豆の海と海辺の町と岩礁を、描いた?撮った?撮って並べた?作品。その波の部分が下の下です。ここの部分、すごくうねっていて、エネルギーが四方八方に向かっていて、だけど煮え立っているこの領域でふつふつとしているがその次にどうなるか決まってないような焦燥もあって・・・。波にこれだけの表情を現したのは、北斎以来じゃないか・・・などと思ったりしました。(そんな風に思いつつ、ほかの波を撮った写真家の作品も思い出して、あれもこれも凄いな・・・とも思うけれど)

 解説によると「前略)一作目(注;下の写真は一作目)の津波のように迫り来る大きな波の風景から、二作目では波の恐ろしさというよりも、海岸沿いに岩や島のようなものが渡航を阻むような表現になっていて、私自身の心情を反映したものになっている。ウイルスというものに直接言及するつもりはないが、旅や、移動というものの従来の位置付けが一変してしまった世界が目の前にある以上、波を見る行為を継続することで思考を続けていきたいと思っている」とあった。(勝手に抜粋してしまいました、すいません)

 写真展は3/7まで。日曜日と国民の休日は休館なので要注意。時間は10-17:30。皆様もぜひとも!

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西野壮平WAVES Part Ⅰ全体

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西野壮平WAVES Part Ⅰ部分