トキワ荘の青春

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 朝から雨が降っている。テレビ録画のためのDVD/HDDレコーダーはBLUE RAY以前のモデルで、15年くらい前のモデルだと思う。BLUE RAYのものに買い替えようかなあとずっと思ったまま、それほどたくさん録画するわけでもないうえに、録画してHDDなりDVDに残すと、それで安心してしまうからか、あるいはその番組を録画する必要がなかったってことなのか、結局は再度再生することがないものも多く、そう考えると、動くうちはこの程度のもので十分と思ってしまい、買い替えていない。それでも、もうHDDが満杯に近くなってしまうと、そこにあるものを消去するかDVDに移動する。今日は何か月か前にNHKBSで放送された市川準監督の「トキワ荘の青春」(1996)をDVDにダビングしながら観た。故・市川準監督作品は大好きで、とくに「ざわざわ下北沢」「大阪物語」「トキワ荘の青春」は何回も観ている。「会社物語」も良かったですね。しかしもう四回か五回も観ているはずなのに久しぶりに観た「トキワ荘の青春」は、いままで感じていた明の部分よりも、寺さんこと漫画家寺田ヒロオ本木雅弘)の抱える苦悩や正義感が暗くのしかかるのだった。若くはるかに才能がある後輩たちの世話をして送り出し、置いて行かれ、自分の作品は「修身の教科書を作っているわけではないのだから」と書き換えを迫られ(それでも頑固に書き換えをせず疎まれ発表数が減り)、そこには当然ながら成功と挫折があり、それでも自分を貫こうとする強い意志は、言い換えると頑固で扱いにくく。でも彼も、新たに始まる安易な言い方だけど「夢と希望に満ちた」時代の中に属し、すなわち黎明期の清々しさを知っていて、だから頑固さも含めてそこに属してそうした自分だったのだから、それはそれで尊い。以前観たときの私は、寺田ヒロオは語り役であり、ギャグマンガに転身して起死回生が実現する赤塚や、上京して手塚治虫に憧れながらも順調にのし上がる藤子不二雄の二人や、理詰めできっちりと考えて前を進む印象の石森や、無頼派のようでトキワ荘から距離を置く寺田の友人のつげ義春や、そういうその後成功(あるいは名を残)した漫画家たちに注目をして観ていたのだろう。最後の方でもうあまり子供たちから支持されなくなった寺田の漫画のコマがアップで映る場面や、その寺田が相撲を取って遊ぶところ、そして土手に立ち転がって来た野球ボールを投げ返したその一瞬映る子供の着ているユニフォームの背番号がゼロ番のところ。ここに登場するほかの漫画家と比較するとあまり名を成せなかったこの男の処世の下手さと自分を曲げなかった強さは、ひどく身に沁みるじゃないですか。それにしてもこの映画を観た人の星いくつ?って感じのいろんなウェブサイト上の評価ってずいぶん低いんですね。それぞれの方が有名になった漫画家の推しだったりあるいは自分で作った人物像があって、それにそぐわないのだろうか?まぁ市川準監督も、もう故人なんだし、私のように市川準(と小津安二郎とアキ・カリウスマキ)が好きなおじさんもいるので、つまんなかったら表明せずにじっとしておいてください。

 それでちょっとwikipediaで調べると、寺田ヒロオは1931年生まれで1992年に亡くなっているのだが、最後は家族ともあまり交わらず自宅の離れでひとり暮らし、そして一人亡くなった。その自宅の場所が私がいま住むこの神奈川県茅ケ崎市だと書いてあったので驚いた。そして、亡くなる二年前(1990年6月)に、その茅ケ崎の家にトキワ荘時代が一緒だった有名漫画家を家に呼んで、宴会をしている。寺田の思いとしては「これが彼らと交流する最後の会」と腹に据えていたらしく、その会以降は交流を断ったそうだ。そのあたりがこの人の人柄だったんだろう。そしてその宴会の様子が動画サイトで見ることが出来る。当時のホームビデオで撮られた映像で、それにしても画質が悪い。そこにはまだお元気な赤塚不二夫石森章太郎の笑顔も映っていた。

 映画のなかで、腹を空かした寺田に忙しい手塚治虫が頼んだ出前が届く場面がある。それは東長崎にいまもあるらしい松葉という大衆中華の店からの出前で、天津丼と餃子とビールの出前だった。天津丼というのがオッ!と思いましたね。ラーメンとか炒飯ではなく、中華丼でもタンメンでも五目ソバでもなく。天津丼、このブログにも何度も書いていると思うけど、私が大学時代によく食べに行った中華の店で、私が定番にしていたのは天津丼なので、なんかこういうのオッ!と嬉しくなりますね。

 というわけでずっと自室にいるので新たな写真は撮っておらず、写真は少し前のものです。