川沿いの道

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 今日は雨。朝からパソコンで古い写真をあれこれ見直しては、ピックアップして画像補正したりプリントしたり、そのプリントを70枚ほど持って、ご近所のEさん宅を訪ねる。Eさんはイラストを描く。私は写真が趣味なので、イラストと写真で5月に二人展をやろうという魂胆があるのだ。一時間と少し相談をしてから帰宅。そんなわけで写真は一枚も撮らなかった。上の写真は数日前の、このブログでいえばカマキリの卵のことを書いた日に撮ったものです。この川沿いの道、茅ケ崎に来てからすでに30年以上、もう何回も歩いた。家から散歩するのにちょうど良い距離にあるのです。何回も歩いたから、今日の午前のように古い写真を見直していると、ここで撮った写真が何回も何回も出てくる。こんな風に植えられた木々が葉を落として明るい陽射しを落としている冬の写真があれば、濃い緑の葉がきらきらと輝いている日の写真もあった。たぶんこのブログを延々と遡ると十回かもっとこの川沿いの道で撮った写真が使われているんだろう。

 散歩している人と言えば、宮沢賢治フロックコートを着て、少しうつむいて歩いている写真などが浮かぶ。宮沢賢治のことだから、うつむいてゆっくり(と思われる)歩きながら世の中を良くするにはどうしたら良いか、なんてこと考えていたのだろうか・・・などと考えてしまうものだが、そればっかりではなかっただろうな。

 なんだろうなあ・・・例えば二十年前、わたしは散歩をしながらちゃんと思索のようなこともしていた気がするんですよ。覚えているのは人型ロボットが出てきたときに騙されちゃいけないぞ、擬人化とは怖い洗脳手法だぞ、といったようなことを考えたり、人が観察しているときにその変化がわかる速さと、たとえば春になりいっせいに雑草が出てくるとはいっても、いまここで一時間地面を見つめていても高速度撮影のような変化はわからないよな、ということは・・・・(・・・・のところはもう覚えてないんですけどね)など。

 いまは目に入って来る光景を言葉に置き換えて、あカマキリだとか、あ葉を落とした枝の影がきれいだ、とかいちいち光景を言葉にしているだけなんじゃないか。ま、それでもいいのか。