ワーゲン・ビートル

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 午前、昨年の5月に手術したその後の状況把握のために、半年ぶりに病院へ行く。自宅から病院は片道で3000歩くらいだ。途中で梅や水仙や早春の花を見る。土日が冷たい雨だったから、今日の陽光は気持ちが良かった。帰り道セブン・イレブンで炒飯を買う。帰宅してから昼食として食べた。なんだか炒飯が食べたいな、と思ったのだ。理由ははっきりしている。病院では9時に採血、採血してとある検査をして結果が出るのが10:15頃、それまでのあいだ、待合室で読書をしていたのだが、その小説に炒飯が出てきたのだ。とくに材料に特徴のない炒飯。だけれども、その手際よい作り方で、簡単には出せない味を持った炒飯。セブンの炒飯はチンするものなのにけっこう美味しく食べられる。読んでいたのは畑野博美著「大人になったら、」で、待っているあいだに読み終えてしまった。

 また古い写真を見直してみる。これは1984年か85年(だと思う)に撮った写真。大磯町の漁港の駐車場。雨上がり。ここのところ、昨日のブログにも書いたイラスト+写真の展示のために、古い写真から新しいものまで、車を題材にしている写真を選ぶべく見直している。ほんと、目が疲れるのだった。それで感じることは1970年代80年代・・・90年代くらいまでは、撮っている私自身がかっこいい自動車に憧れのような気持ちがあったんだと思う、自動車を主被写体にしたり点景に扱ったりしながらも、それを「かっこよいもの」として撮っている。自家用車もいまより個性的でちょっと目立つような「オレの車だぜ」っていうのが多く走っていたのではないだろうか。いや、ただ最近の車とは違うデザインテイストの車を見ると懐かしい思いに駆られるから、それでそんな風に感じているのかもしれないが・・・

 この写真はもとはポジのカラーで撮ってある。もう30年も、温度も湿度も管理されていない自室に置かれていて、像も薄れて色も崩れている。こんな風にモノクロにすることは可能だ。

 これは印象だけど、この頃は外車はいまよりずっと少なかったと思う。いまはメルセデスBMWアウディもワーゲンも、かなりの頻度で見かけるけれど、この頃は、ワーゲンのそれもこのビートルがいちばんよく見かける外車だった。だから、赤いビートルを見るとリセット、赤くないビートルを100台見たら運が叶う、なんて遊びもあった(この話はたぶんこのブログの過去のどこかに書いているだろう)。友人の同僚にシトロエンのエアサス車に載っている人がいた。1987年頃にその車の助手席だったか後部座席だったかに載せてもらったことがあった。エンジンを掛けると車体がふわーっとゆっくり持ち上がった(と思う)。未来的だった。1990年頃にレガシーのステーションワゴンに買い替えたときにエアサス車を選んで悦に入っていたが、それが奏功するダートなど走ることはほとんどなかった。

 いまの若い世代は音楽も本もダウンロード購入したもので楽しむ、車は必要なときにレンタルするかあるいは車は使わずになんとかする、アンプやらスピーカーやらプレイヤーにこだわって微細な音の違いを追求する人もあまり残っていないんじゃないか。持っていることがステータスというのか満足につながる、そういうものってあるのかな?服はそうなのか?スニーカーも?まぁでもそれを非難なんてぜんぜんしないですよ。私がその世代に生まれていれば、この疑問に答えることが出来ないだろうし、そのように生活するんだろうから。答えられないのは、もちろん、質問の前提となっている頃の本や音楽やオーディオ機器のことをまず知らないのだから答えようがないに違いない。