大磯町

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 神奈川県の相模湾沿いに、鎌倉市からはじめると、鎌倉市藤沢市茅ケ崎市平塚市と並んで、次がこの神奈川県中郡大磯町。鎌倉は言わずと知れた今年で言えば鎌倉殿の十三人の鎌倉で、藤沢市と言えば江の島があり、茅ケ崎市加山雄三やサザンの桑田氏の出身地で、平塚市は七夕祭がよく知られていて湘南ベルマーレの本拠地の競技場があり、そうそういまや河野太郎が有名政治家だが河野家は平塚が地元だ。そして中郡大磯町は明治の頃、吉田茂はじめ多くの財界政界の大物が別荘を構えていた場所で、いまは村上春樹も住んでいる(のかなまだ?)。大磯港の西側の岩場はアオバトの飛来地としてバードウォッチャーにはよく知られているし、大磯港の東側の海水浴場は日本最初の海水浴場だったと聞いたことがある。1月には砂浜で大規模などんど焼き左義長祭りが行われ国の重要無形民俗文化財に指定されている。そういう町です。あ、大磯のプリンスホテルには大磯ロングビーチという、いろんな種類のプールがあって、むかしむかしは芸能人水泳大会なんていうテレビ番組がここで多く録られていた。最近では某カメラメーカーのサイトに写真家の小澤忠恭さんが大磯百景っていったかな、連載をしていましたね。

 そういう大磯町まで自家用車で行き、港の駐車場に車を停めて、二時間半ほどぶらぶらと散歩をしてきた。もうジャンパーなどいらない暖かさ。自家用車で聴いていたFMヨコハマの番組では600℃の法則といって2/1以降の毎日の最高気温を合算していって600に達したころに桜が開花する、その法則に当てはめるともう3/19に東京や横浜の桜は開花することになる、と言っていた。開花から一週間で満開を迎えるのだとすると3/25くらいが満開なのだろうか。その頃にコロナが落ち着いていれば良いのだが。あるいは戦争が終わっていれば良いのだが。

 大磯漁港の中に大きな砂利運搬船が二隻入っていて、砂利を岸壁に降ろしている作業の最中だった。漁港には相模湾を漁場にした小型の船ばかりだから、それに比較して大きな砂利運搬船が入っているのは偉容だった。釣りを楽しんでいる人たちは大きな船に興味はないようだったが、私はなんだか子供のようにわくわくしてしまい、しばらく作業を見ては、写真を撮っていた。

 船が作業を終えて出て行ったあとに、砂浜から西湘バイパスをはさんで古くからある住宅街(漁村という単語でいいのかはわからない)を気まぐれに路地を曲がりながら歩く。舗装された道とブロック塀の隙間のわずかな土から生えた椿が真っ赤な花をたくさん付けて咲き誇っていたり、黒猫が陽射しの中を横切って行ったり、もう90歳以上かとも思われる白髪で少し背中の曲がった小さな老婆が二人話し込んでいたり、そんな住宅地の中の公園で縄跳びを練習している小3くらいのひょろっとした一人の少年を見たりした。国道一号沿いにある老舗の和菓子屋新杵に寄って虎石饅頭を買ってみた。

 古い歌謡曲南沙織の「早春の港」という曲があったのを、もう早春ではないけれど、漁港を歩いているときに思い出した。

♪ふるさと持たないあのひとの心の港になりたいの♪

♪好きとも言わないしお互いに聞かない♪

という歌詞だけが思い出された。メロディは全部思い出せた。

 私はもう40年以上前に大磯の海水浴場で友達と一緒にボディーサーフィンだとかなんとか言って、寄せてくる波に乗って遊んだことがあって、ただそれだけのありふれた遊びだったのに、なんだか妙にくっきりその日のことを覚えている。海から上がり、砂浜に寝転がり、自分の胸のあたりに汗が噴き出ている様子や、波の音や、かすかに風に乗って聞こえてくる海水浴場全体のあちこちから沸いて断片になった誰かの笑い声や大声を。村田和人の「電話しても」って曲が流れていた夏だ。その曲がヒットしたわけではなかったと思うが、自分はその曲が気に入っていたから、海水浴場での転がりながらカセットテープのウォークマンで聴いていたような気がする。いま調べたらこの曲は1982年発売とあった。

♪電話しても想うことが ひとつも言えないまま

 二人の時は過ぎて 別れの言葉を言うだけ

 明日また会える♪

そんな歌詞だったそうだ(いま調べた)。

 1982年よりさらにもっともっと前の1940年代、大正13年か14年に生まれたおじさんは、休暇を使って大磯の海水浴場に来て、浜から数十メートルのところにある兜岩と呼ばれる岩礁まで泳いで遊んだ。おじさんは数年前に亡くなったが、亡くなるまた五年か十年前に私が運転して小田原駅に向かう自家用車の後部座席に乗り、西湘バイパスを走っているときにこの兜岩を見つけて、そう言って懐かしんだことがあったのだ。それが、戦争が始まる前の思い出だったのか、戦時中だったのか、終戦の頃だったのか、おじさんはなにかもうちょっと話したのだが、肝心なその物語を忘れている自分が情けない。たしか大変なこと、だから開戦とか原爆投下とか終戦玉音放送のときか、そういうときにそれを知らずに泳いでいた、と言ったような気がするのだが。

 話は「電話しても」に戻るけど、あの頃は、百円玉をため込んでは公衆電話で遠距離にいる恋人に電話をしたものだった。話し中だとまたそのあたりの夜の街を一回りしては駅前の電話ボックスに回帰してきてまた掛けるって感じで。歌詞のように、近況報告やら他愛のない話ばかりで、なにか想うことなんて言えない。歌詞のように言おうと思っていて言えないのではなくて、言おうと思ってなかった気がする。そんな気持ちは言わずもがなだと思っていた気がする。遠距離では歌詞のように「明日また会える」なんていう幸せな状況にはなってない。あるとき会社の先輩が、男はいちど思いを言えばもうそれで十分伝わっていて大丈夫と思いがちだが、女は何度も言われ続けないとすぐに不安に駆られるものだ、なんて言っていた。たぶん居酒屋で。そんなわけで(どんなわけだ(笑))遠距離恋愛はあっけなくプツンと切れて終わる。そうか、その終わったのが1982年だった気がしてきた。失意にあったからあの大磯海水浴場でのボディーサーフィン遊びをした日のことが妙に記憶に残っているのかな。こんなことここにこうして思うままに文章にしていたから思い出したことです。