犬を飼ったことがない

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 小5か小6の頃だったと思う。天体望遠鏡を買ってもらった。クリスマスのプレゼントだったのだろうか。屈折式の口径も小さなものだったのだろう。嬉しくて、夜になると、父の勤める病院の職員が住んでいる自宅、木造平屋長屋の古い家だったが、庭だけは広かった、その庭に出て望遠鏡を星に向けた。それでも、月や、木星土星くらいまでなら、ピントを結んだそこに、クレーターや衛星や輪っかが見えたが、恒星となるともちろん点像を見ることになるわけだが、子供の私は、そのことを知らずにいて、ピントがぼけたぼんやりとした(ピントが合っていないから点に像を結ばない)丸い像を、星が丸く見えたと思い込み、一生懸命そのボケ像をスケッチしていた。望遠鏡をのぞき、像を見て、その像を懐中電灯でそのときだけ照らしたノートに、鉛筆で描く。懐中電灯を消してまた覗く、付けてまた描く。ピントのぼけた丸い像は均一の明るさであるはずなのだが、その丸のなかに何かムラや模様が見えたのは、そういうものを見ることが「観察」なのだから、ちょっとそう見えた気がしたことをおおげさに描いたのだろうか。それともその安価な望遠鏡のレンズの表面精度かなにかが作るムラや模様を見ていたのか。あるいは空気の揺らぎを見ていたのか。そのうちピントを合わせることを覚えたのでもうボケ像観察はやめになった。

 その同じ頃に、月というのはなんでこちら側しか地球に見せないのか?それはもちろん月が地球の周りを一回公転するあいだに自転も同じ一回だからなのだが、そういう風にしたところになにか作為的な意思があるような気がしてならなかった。そして地球からは見えない月の裏側でなにかが地球外生物によって行われているに違いないと思うようになった。そうしたらそれが怖くて怖くて、毎晩、なかなか寝付けないのだった。

 このブログは十年以上書いているので、こんなエピソード記憶も、書いたことがあったかもしれない。

 南中の太陽が低くて、太陽が地平線に沈む角度が小さいと(赤道下だとこれが秋分春分にいちばん大きな角度になりそれが90度ってことかな・・・?たぶん)沈んだ後に夜になるまでの時間が長いのだろうか。極に近くなると白夜があるくらいだから。すなわち冬には日が沈む時刻が例えば午後5時だけれど、あたりが真っ暗になるまではそこからさらにA分を要しているとすると、真夏には日が沈む時刻が例えば午後7時となり、だけどそこからあたりが真っ暗になるまでに要するB分は、B<Aという関係なのだろうか。ちょっと自信がないですが。

 日が暮れてから夜になるまでの時間に犬と一緒に散歩をするとき、人はなにを考えているのかな。今夜のおかずのことや、明日の仕事のことなども考えるだろうけれど、もっと・・・安易な単語で言えば哲学的なことを、時間とか死とか、そんなことも考えているのかな。犬がいれば怖くないし、そしてなにしろこれから夜になるぎりぎりの時刻なのだから。

 でも、私は、飼ったことのあるペットはせいぜい亀や金魚や、セキセイインコやジュウシマツで、感情のやり取りが明確にあり、人の言葉をある程度理解して行動している犬や猫を飼ったことはない。

 酒があまり飲めないのは体質であり残念なことで、飲むときに生まれる誰かとの出会いや議論や、そういうことを経験できなかった。例えば飲み屋の常連客になってセンセイの鞄のような出会いに恵まれることはないわけだ、センセイではないけれど。ゴルフをやらないのは意思に基づくんだろう、休日は写真や読書や美術鑑賞に使いたかったから断り続けてきた。煙草は大学生の頃にかっこつけて一応ライターと一緒にひと箱を持っていたが結局習慣にはならずにもう二十代の前半にはそんなかっこつけも辞めた。そして上記の通り犬も猫も飼ったことがないし、今住んでいるマンションはペット禁止なので、これから先も飼わないだろう。

 犬や猫を飼って彼らに癒され、酒を飲むことで誰かと知り合ったり議論をしたり喧嘩をしたりして人生を学んだり、ゴルフ場で先輩の人生訓を聞いて内心同意できなくても頷いたり本当にためになる経験談を聞いたり、そういうことをしてこなかったというかしない性格だったことが、人としての大きさのようなことを阻害しただろうか。さっさと落っこちる線香花火の火の玉のようであり、充実して最後まで落ちない大きな火の玉ではないような。

 まぁだけど、そういう時間を概ね一人で過ごして、ぴんぼけの星の像を一生懸命見つめていたのも、それはそれで、成長してきたなかのひとつのエピソードとしては悪くない気もするな・・・。なんだか自己紹介のようなことを書いてますね(笑)