ポーラ美術館

 昨晩、日帰りで行ける範囲の美術館の開催中の企画展を調べていたら、箱根のポーラ美術館で「モネからリヒターへ/ポーラ美術館開館20周年記念展」が始まっていることを知り、行くことに。思ったより道は空いていて、開館の9:00の少し前に到着できた。そのときは曇りで霧が出ていたが、山への上り坂になる前、西湘バイパスから箱根湯本あたりまでは雲が切れ、澄んだ空気のなか明るく陽が差していて、新緑に彩られた箱根の山肌が見えていたから、ポーラ美術館もそのうちに晴れるだろうと思っていた。

 絵を見るときに自分がどれだけその絵を見ることが出来ているか。あるいは「うまく接することが出来ているか」「絵と自分がなにか関係性を結べているか」というような鑑賞がうまく出来たかどうかは、何によって左右されるのだろう。身体も十分に休養が取れていて健康で、心も未来に向いているとき、とは限らないかもしれない。でも疲弊していたら絵を見るエネルギーも生まれずなにも感応出来ないかもしれない。心が100%完成し健康であるより、そこに10%か30%か50%かわからないけれど、なにか欠落のような迷いのようなことがあり、そこを埋めてくれるための道標となる考えを示してくれたり、その迷いを他に向ける機会を与えてくれたり、そういうことが感応なのだろう。美術作品は絵に限らず、そういう作品が鑑賞者に対して個別に与える力を持っている。

 今日はたくさんの絵を見て、そのひとつひとつの前に立つと、なんだか絵が動き出してくれた感じがしました。ウジェーヌ・ブータンの「海洋の帆船」を見ていると、動かない絵なのに動いていて、雲は早く動き、波の音が聞こえ、帆船は左右に揺さぶられているようだった。難波田龍起の「生命体の集合」を見ていると、タイトルの通りにエネルギーのはじける様子が強く美しく、かつ、強すぎて耐えられないように、向かってきた。下のゲルハルト・リヒター抽象絵画649-2は世界の全部が曼荼羅のようにこのなかに清濁合わせ突っ込まれているようだった。1987年、リヒターがこの絵を描いて、最後の筆はどこにどう色を残して完成したんだろう、その日時はいつで、その同じ時刻に私はなにをしていたのだろう。下の下の杉本博司の新作はプリズムで作られた虹の部分を接写というか拡大したような解説が書かれていた。杉本の作品は、その経緯や作成過程を知らされて作品の見え方が変わる感じを受けるけれど、もっと純粋に波長によって紐づけられた人の目と云う仕組みの結果として見える色彩ということを、言葉以前に美しいと思えるようになりたい(戻りたい)。子供が好きな色はなに?と聞かれて、すぐに青!とか赤!とか答えるように。

 絵を見終わってから、美術館の散歩コースを歩く。真白の雲が早く動き、陽が差してきて、陽が陰って来る。差して明るく葉も幹も光、陰ってふと柔らかくひっそりと。たぶんこの見上げた木の葉の大きさも、一日単位でどんどん変化しているんだろう。それから、変化していく中でも、変化しないこともある。

 これからBSテレビで83年のRCサクセションのライブ映像番組を観ます。サマー・ツアー、スロー・バラード、トランジスタ・ラジオ、たまらん坂・・・