感じること

 上の写真は昨日、大磯の砂浜で遊んでいた二人の少年です。不思議な遊びで一体彼らはどういうルールの遊びを発明実践しているのか見ていても想像すら出来なかった。こうして寝転がってじっとしていて、なにかの拍子に立ち上がってボールを転がすんだけど、またなにかの決まりに従ってじっとしてしまう。じっとする遊びといえば、だるまさんころんだ、がそうだったけれど、そんな風には見えなかった。だけど五月のまだ湿度が高くない爽やかな日に、こういう光景を眺めていると、好日だなと思ったりします。自分たちだけのルールで遊んだことがあっただろうか?たぶんあったんだろうけれど、思い出せない。

 教室で小さな紙にメッセージが書かれてこっそり回って来る、ということ女子はよくやっていたが、男はそんなことあまりやらなかったな。メモを回すなんていうより、暗号(ホームズシリーズの踊る人形の秘密のように)や、実際にはやらないけれど憧れとしての狼煙とか、なにか秘密の伝達手段ていうのに憧れていた。そんな小学生の頃を思い出したりしました。どうしてそういう「仲間」だけに通じる暗号化された通信手段が必要で、それによって連絡を取り合うことでどういう目的が達成されると計画するのか、ということは後付けでいいのですね。妄想でも「ごっこ」でもいい。とにかくそういう手段で連絡を取り合うという手法の実践に憧れていたと思う。

 

 5/5快晴。今日は八重洲というのか京橋なのかな、そこにあるアーティゾン美術館に行き「柴田敏雄鈴木理策 写真と絵画、セザンヌより」を観てきた。すごく見ごたえがありました。途中に掲示してあった鈴木理策さんの文章に『奥行きのある風景に対して大判カメラでレンズの絞りを開けて撮影すると、ピントを合わせた部分ではない場所にもフォーカスがあることに気付き、カメラは風景の中に透明なレイヤーを差し込むようなものだと実感しました。』とあり、中略しますが、そのあとに『私が作品のプリントサイズを大きくしたり、ピントを浅くすることでフォーカスの存在を意識させたりするのも、見ることに手間を取らせたい、見るための時間を立ち上がらせたい、と考えているからです。』とあった。これを読んでいて、例えば、大判ではなくてもフルサイズのカメラに、50mmF1.2などの明るいレンズを開放にして、マニュアルフォーカスリングを至近から無限へ、無限から至近へ、徐々に回しながら、例えば手前から奥までごちゃごちゃと葉や枝が入り組んでいる場所をファインダーで、光学ファインダーでもEVFででも、見ていると、次々とピントのある面にちょうどある被写体がくっきり見えては、また混沌としたボケのなかへ滲んで消えて行く、その様子を見るのが面白いものだと感じることを思い出した。このフォーカスリングを回しながらそこに見えるピント変化の「動画」を見ていたときに、上記転記した「透明なレイヤーを差し込むようなものだ」とまで言葉で言い表すことが出来なかったけど、理策さんのこれを読んで、とても納得できた。

 ところで大きなプリントはいい。このブログにも何度かたぶん書いたけれど、以前(80年代で写真の大型プリントはほとんどなかったころのこと)アンドリュー・ワイエスの展示を見たときに、そもそもサイズにおいて写真は絵画に勝てないじゃないかと思ったことがあったが、今日の展示ではそんなことは全く感じなかった。

 再び、今度は上の写真の話です。デジタルカメラでカラーで撮った画像データから色を抜いて、ノイズを加えて、コントラストをがんがん上げていく。すなわちデジタルカメラの画像データが、なるべくその光景をあるがまま記録している(あるがままが機械が記録すべき高画質であり、それをどう使うかは機械は関与しない、とても真っ当)その高画質を壊していくのだから、高画質の評価項目の数字としては低画質の方向へ改変してしまっている。そうしてこれがいいというのに辿り着いたのが上の写真であり、こういう写真を見ると、すごく懐かしくほっとしてしまい、そうだよなこれが写真というものだ、と思う。若い頃には印刷技術がまだ未発達だったという背景もあっただろうし、フイルムの性能の問題もあったかもしれないが、例えば70年代のカメラ雑誌をめくると、ハイコントラストでひとことで言うと全体を通じて「黒っつぽい」モノクロ写真だらけだ。だから、いまこういう風な画像処理を、いいじゃん!と感じるのは昔見慣れた懐かしさに浸っているということだ。だけど本当にそれだけ、世代の見え方に縛られているというだけなのだろうか。ではその頃の「黒っぽい」モノクロ写真を見てこなかった人たちはこの写真を見るとなにを感じるものなのだろうか。上記のデジカメの技術定義的な、結局のところ写実主義の写真を見ている今の人達が感じることは、たぶん、懐かしいとかカッコいいとかではないんだろう。それでは、そうではない、なにを感じるのか?見たこともない酷いもんだ、とただ否定することになるのか?

 もしも「懐かしい」「カッコいい」ではなくても、否定ではなく受け入れていただける肯定側のなんらかの感じが生まれるとすると、それはまず嬉しいことだろう。それとともに、ではこういう写真ばかりだった時代を超えてきていない人が肯定的な感想を持つとすると、それはどうしてなんだろう?何の経験に基づく感想なんだろう?もしかして人間の持っているもっと根源的な(赤は青より暖かく感じる、とかの)からだの反応が起きるのか?・・・以前からそこがなんか気になっています。