辻堂海岸遠望

 朝、8:00頃に、チャリンコ(自転車)に乗って海へ行ってみたら、たぶんサーファンには最高の波が次々と入って来る日曜日になったようで、大勢の主に真っ黒のウェットスーツを着たサーファーが海に入っていた。眺めていても、どの人が上手でどの人が初心者なのかはまるでわからない、というか、見極めようなんて思わない。ユーミンは「真冬のサーファーはカラスの群れのよう」と歌ったが、真冬でなくてもカラスの群れのようだ。チャリンコで海沿いにずっと伸びているサイクリング路をゆっくりと漕いでいくと、これから海に入るサーファーや、もう海から上がって帰り支度をしているサーファーとすれ違う。ほとんどの方がチャリンコにボードを横づけしてやって来るから地元の方々、むしろサーフィンをやるために湘南の海沿いに居を構えた人たちなんじゃないかな。もちろん老若男女のサーファーがいらっしゃるのだろう、だけど、見かけるのはほとんどが中年以上の男性で、新しくサーフィンを始めている若い人はあまり目立たないように思えた。1970年代80年代のサーフィンブームの頃は、年配の経験者、レジェンドのような人もいただろうけれど、サーファーの年代別分布は若い人が多かっただろうから、予想するにそのままずっとサーフィンを続けていらっしゃる方が多いのではないか。70年代の雑誌「宝島」などにはときどき片岡義男さんなどがサーフィンのことを書いていた(もちろんサーフィン専門誌もあっただろう)。私はハイティーンから20代で、映画エンドレス・サマーのシルエットになったサーファーの姿のポスターを知っていたし、波を求めて世界を旅する若者の生き様がかっこいいと思ったし、実家(神奈川県平塚市と大磯町の堺あたりの海に近い住宅街)近くの金目川河口で望遠レンズでサーファーを点景に扱った写真を撮っていたが、では自分でやってみようと思ったことがあったか?と言われると、一度もないのだった。簡単に言えば「スポーツをやっていたまたはやってみたい」「スポーツを趣味にするまたはしたい」「運動部に属したことがあるまたは属してみたい」「これからスポーツをやってみようと思う」といった問があったとすると全部×なのであり、これはスポーツマンから対局にいた、い続けたってことだ。それは例えば親が禁じたとかでは全くなかった。ちなみに父親は水泳選手で国体などにも出たらしい。体育の成績は概ね5段階の3で、からだが小さいことが自分としてはコンプレックスでスポーツやってもどうせからだが小さいことでダメだろうと思っていたところはあるだろう。今日も海に入っているサーファーがいる風景をこうして写真に撮りながら、写真を撮る、記録する、ということは「傍観者」の行為なのかな・・・「当事者」ではなくて、あるいは「観察者」かな、と思った。須田一政写真塾に行っていたころ、よく須田先生に「もっと近づいて撮りそうな場面でも岬さんは一歩引いている」といった指摘を受けた。先生は良い悪いではなく、それがあなたの個性というか人柄だとおっしゃっていたと思う。上の写真は茅ケ崎から辻堂方面を、600mm(相当)の望遠レンズで撮った写真からトリミングしているので、たぶん800~1000mmくらいの画角。左上に少しだけ浜が写っていて、ここをトリミングで切ることも考えましたが、3:2のアスペクト比を保とうとするとポイントになっている三人のサーファーのシルエットの右か左の人が切られてしまうか、三人ともなんとか収まったとしてもあまりにぎりぎりで詰まった感じになってしまいそうだった、一応、このブログに写真をアップするにあたりこんな風に悩んでいるのであります(笑)。写真を撮っているのだから写真を撮るということにおいては傍観とか観察の先に結局は(撮る)当事者になっている。するとぐるぐる回ってあれこれ書いたけれど、結局のところこういうのは人柄(よく言う「個性」)ってことそのものなんだろう。

 さてイラストと写真の二人展がだいぶ迫ったのでまた載せておきます。

岬たくは、5/14、開場は18:00までですが16:00以降は不在になる予定です。