一度しかない

 今日も本棚から気まぐれに一冊の写真集を抜き出してみる。久しぶりに捲ってみたのは喜多村みかのEinmal ist Keinmal。検索するとeinmalは一度、keinmalは一度もない、とスマホに表示された。2013年に福岡に知人の個展を見に行った。帰宅する日に空港に行く前に、あれは地下鉄だったのか私鉄線なのか、電車に数駅だけ乗った街の本屋(だったかな)の二階か三階で開催されていた喜多村みかの写真展を観て、この写真集を買ったんだった。帯に写真家の言葉として「写真を撮ることは、何だかよくわからないものにむけて祈ることに似ている。」と書かれている。あるいは写真集の最後のページには「前略)なにげない風景が、なにげなく振る舞ったことは、きっと一度もない  なにかまったく同じことが二度以上起こることは、厳密にはありえない(後略」とあった。誰も撮らないような、そこにカメラを向けて写真を撮るということが理解できない、すなわち撮る「そこ」が共通認識として安心して理解できる「あるべき被写体」ではないような、そういう場所にカメラを向けて撮った写真は、それでも、写真集のなかに並べられると「ちょっとだけ」撮った理由がわからなくもない写真に変化している。一般的にその現場にいて「そこ」を撮る人などいないのに、そこを撮る唯一の写真家がいて、写真になって再提示された誰も撮らない「そこ」の写真が、すなわち今度はたしかにここを撮るべきだったんだな、と思わせる。そしてビニルハウスの汚れた屋根の上にとまっている鳩の足を下から見上げ、段ボール箱がたくさん置かれたビルの部屋のなかにある鉢植えの植物を窓越しに覗き見たり、汚れたすりガラスの向こうにどうやら人影らしいぼんやりとしたものが見えていたり、と被写体はなにかを隔てた向こうにありそれでもきれいな色をその写真は纏っているから、儚く哀しい。例えばある日の一つのイベントを記録した写真でもなく、強烈な作風が写真を貫いているわけでもなく、誰か頻繁に登場する人物によってそれがある時期のある場所の写真家の私小説だとも思わせず、目に見えるなにかのコンセプトが写真の選択を決めているようにも見えない。ただ、上記のように「誰も撮らないそこを写真で示されることにより、そこを撮ったことが理解できてきて、するとこの写真家は撮るべきところをちゃんと撮っているんだなと感心する」一枚一枚の写真が前から引き継ぎ次へ受け渡すなにかの物語の役目なんかないようでいて、なのにその写真の並びがこれしかないように思えたりする。これはだから葛藤とか迷いとか、気分を並べた写真集であり、その繊細さが素晴らしい。

 よく雲のある空や、砂浜に寄せる波を見ていて、地球誕生以来に浮かんだ雲や寄せてきた波のその形が、まったく同じ形で再現されたことなどないんだなと思い驚く。そのことを感じると、これは雲や波に限らず世界の全部は、そう全部一回のことだ、そう思ったことが私もあります。

いよいよ金曜午後からイラストと写真の二人展がはじまります。天気予報が良くないですね。豪雨の金曜、雨の土曜、小雨の日曜。

よろしくお願いします。なお、土曜は18:00までですが私は16:00前後で不在となります。