願うこと

 起こってしまうことは、最初に驚天動地であって、悲嘆や心配に明け暮れても、やがてそれを受け入れて慣れて行ってしまい、個が無意識の諦めとともに受け入れてしまうと(多くは不安を不幸に変えても妥協して)、本当に起こってしまったことに直面している「当事者」以外には悲嘆や心配も薄れて行き、やがて忘れてしまう。以前、鏑木清方展に行ったときに画家の生前のインタビュー番組が会場のモニターで流れていたが、そのなかで画家が「明治という時代がいちばん幸せだった」と言っていた。そこには暮らしのなかに人と人の思いやりがあった、というようなことを言っていた。思いやりが保たれることはエネルギーがいる。あるいは悲嘆や心配がなければ思いやりも生きやすいだろう。悲嘆や心配をいつまでも抱え続けられるほど人の心は強くないから、目下の自分のことをまずまず問題なく生きるためにはそういう風に時間とともに気持ちが変わることは当たり前であり誰も責められないんだろう。ニュースには悲しいニュースもあれば緊迫したニュースもあるだろう、けれども一方で、夢(期待)を持てるような、楽しい気持ちになるような、そういうニュースもあるはずで、出来れば半々くらいにはなっていてほしい。どうも最近はニュースを見聞きすること自体が重荷になっていて、だけどそうしていないとそれは厭世というのか世捨て人というのか・・・仙人じゃないだろうが・・・ムーミンの登場人物で言えば、ジャコウネズミさんのようで・・・それはそれでもうそうすると決めてしまえばそういう生き方もあるかもしれない。ニュースを見聞きするのが辛い、一方で、バラエティ番組やお笑い番組で、相も変わらずの芸能人の芸を見て気楽に笑って楽しんで、ということもここ二年三年で急に出来なくなってしまった。なので相も変わらずの芸能人が実はがらっと変わっていて、ずっと出続けている重鎮を除いて、ほとんど誰だか判らなくなってしまった。

 上の写真は、エイリアンのTシャツが象徴のようにあり、向こうの電飾モニターにのみ、すなわち映像のなかだけに唇を見せて笑顔の女性が映っていて、ここに行き交う「他人たち」はみなマスクをしている。当たり前だけれど、数年前にこの世界を見通せていたらきっと奇妙に思える写真だと思う。「かえるくん東京を救う」があるのか。どうか、狂人が世界を支配しませんように。

 くるり の歌詞は、何を言いたいのかわからなくて難しい、けれど「その線は水平線」を聴いていると、なんだか少しパワーがもらえる気がします。脳みそは関係ない、がいい。