しまっておくもの、愛しきもの

 環八沿いのトランクルームのビル。なんだか現実とは思えない、すなわちイラスト画のように、汚れなくピュアで、明るく無機質で、幾何学的で余白がなく、もしかすると底知れず怖い。

 某さんと話していて、私は石川啄木の代表作をなんも知らないことを痛感した。勉強不足で恥ずかしい。そんなことがあったので、石川啄木×代表作、などという検索をしてしまった。安易な検索が良いことなのかわからないけれど。知っている、あるいはうろ覚えの歌は四つくらいしかなかった。

砂山の砂に腹這い初恋の いたみを遠く思い出づる日

この歌も知らなかった。

 夏の太陽に照らされた砂浜は熱くて裸足で歩けない。それはよく知っている。誰でも一度はそういう経験があるんじゃないか。吉川忠英の「さすらいの宇宙船」という曲の二番の歌詞は

♪つまさき立ちしたなら 焼けた浜辺 潮風 海鳴り 寄せ返す波

巡り合いと別れを繰り返して 逃がしてしまった 短い季節

遠ざかる地球は 小さな星 もう宇宙船は 流星の旅の空

さらば 愛しき人 緑の山河

バイバイ バイバイ バイバイ バイバイ♪

だ。なんとこの曲の歌詞は、それこそネットで調べようとしても見つからなかった!そこで歌を聴きながら書き取った。

 啄木の、初恋のいたみを遠く思い出づる・・・は昼間に太陽の熱を吸収した砂が夕暮れを間近にして少し冷めてきて、だけどそれより冷えてきた空気よりはまだ暖かく、だから、わずかに残った暖かさに縋りつくように、そこに寝転がり、頬を砂に当てているような場面が浮かぶ。季節は初冬とか晩秋ではないかと感じた。なにしろ初恋を思い出すというのだから究極のセンチメンタルであり、作者の寂しさが痛いほど伝わる、そんな感じ。

 さすらいの宇宙船の歌詞は、真夏の海水浴場だ。海水浴客もまばらだが、寂しくはないくらい集まっている。現実に海風が自分の髪を揺らして通り抜けていき、子供の遊ぶ歓声が聞こえ、波の音がはっきりと聞こえる。そういう砂浜へ爪先立ちで足の裏の熱さをやり過ごしながら降りてきて、適当と思われる場所に腰を下ろし、寝転がり、真上の太陽が眩しくて、目を閉じると、目の前は瞼を流れる血の色で赤い。うまく行かなかった恋について後悔とともに諦めなければならないことを自覚して受け入れて行こうとする。すると、少し前にわずかな期待を抱かせた好きだった人との思い出が浮かぶ、振り払おうと思いつつ、その過去の一瞬の甘美に酔いしれる。そうなったときにはいつのまにか子供の歓声も波の音も聞こえなくなり、耳鳴りのような静寂の音の世界に包まれると、そよ風も止まってしまっている。誰かが後ろに逸らしたビーチボールが転がってきて、その誰か(少年か少女か)に「すいません!」と声を掛けられる、それが救いで、やっと再び、そよ風と波の音と歓声のある今という世界へ引き戻される。そんな感じじゃないか。歌詞では、もうそういう悲しい日々に別れを告げることの決意の比喩として主人公は宇宙船に乗って地球から旅立ってしまうという思い切った展開で書かれているが、そこではなく、

♪つまさき立ちしたなら 焼けた浜辺 潮風 海鳴り 寄せ返す波♪

だけだと、上記のような真夏の海水浴場を私は想像する。

 さて、こんな風に、歌や歌詞を読んで、それが自分の記憶やらなにやらに作用して、自分だけの妄想というか想像というか思い浮かんだ場面・・・それは人それぞれ全部違う。当たり前のことをあらためて思いました。

 吉川忠英さんは、いまもSONGSとか懐かしの青春フォークのような番組などで往年の歌手が歌うときのバックバンドでアコギを弾いている姿を見ることがありますね。いまやアコギの名手として有名でフォークシンガーだった彼を知っている人はあまりいないのではないか。1970年代に出していたCHUEI♯29とかイリュージョンというアルバムは、たぶんほとんどヒットせず売れなかったと思うけれど、ひとつひとつの曲がきらりと光る掌編が詰まった珠玉のアルバムって感じです。私はLPレコードを大事に持っています。

 無機質なドアのあるどの部屋も、みなうり二つのトランクルームだけれど、中にある誰かの大事なものは、みな手あかにまみれ、傷ついて、愛しかったり、するんだろう。