一つとして同じものがない

 養老孟子著「まる ありがとう」は一昨年末に亡くなった愛猫まるについて養老先生が語ったことが本になっている。P147に(まるは)感覚の世界で生きているから春夏秋冬は新鮮だったはず、とあり、「目に映る花鳥風月は一つとして同じものがない」からまるにとっての世界は「「日々新た」である」とあった。なるほど花鳥風月は一つとして同じではなく、すべての一瞬が違っている。それなのに人間は、あるいはカメラマンは、あるいは風景カメラマンは、その一つとして同じものがない花鳥風月を、同じものがないくせに類型化/定型化された「これが撮るべき」「これがフォトジェニック」「これがあるべき最盛期」「これが隙のない構図」というような尺度を当てはめて見まわしていて、せっかく一つとして同じものがないのに、概ね同じ安心の絶景を良しとして、その良しを求めて、同じ時刻に同じ場所に殺到したりする。それを名所という。わたしは天邪鬼だから?花鳥風月を写真に撮るということに、自分だって目の前にきれいな花鳥風月が広がっていると途端にそういう尺度で撮るくせに、普段は、花鳥風月を撮るなんて、なんかダサいんじゃないか?という思いを持っている。だけどこのP147を読んで、ダサいのは定型化した尺度の「いい写真」を撮ろうと思う欲のことだと思い至る。花鳥風月でも、その見方に媚び無く、写真を通じて花鳥風月に向かうときの自分なりのやり方があれば、むしろカッコいいんだろう。例えばテリ・ワイフェンバックが、まるが見て歩いたように「自宅の近所」の花や雲にカメラを向けて(すなわち名所など行かず)撮った写真が魅力的なのは、写真家がまるや動物たちのように、いつも感覚的好奇心で一つとして同じでない、その「同じでない」を愛しているからなのかもしれない。なんていう風に猫の本を読んでいても、写真に結び付けて考えてしまう、この癖(のようなもの)は一体どうしらいいのやら・・・

 このカバーを被ったワーゲンビートル(と思われる)だって、(風景写真ではないけれど)カバーの車体への「貼り付き方」や「皺の形」は、一つとして同じではない。光の具合、雲の明るさ、雲の明暗、植木の葉の色・・・みな一つとして同じにはならない。

 すべてが流転して変わるから、寂しいし、それで愛おしいと思い、愛おしいと思われることを望んだりする。権力はそういう当たり前の思いを忘れさせるほどの支配の快感があるのだろうか・・・もう何か月経つのでしょう・・・