模型のような実景

 湘南新宿ラインの車窓から撮った五反田あたりの交差点。たまたま通過した瞬間、こんな風景が写りました。なにがそう見せるのかわからないけれど、この歩いている人たちが、時間が凍結されてこの身体の姿勢のままここに固定されているように感じてしまった。写真なんだから動いている一瞬を停めてしまうので、それは当たり前なんだろうが、そういうのではなく、そもそもこれは停止している風景で、まぁ実寸大の模型のような、それをじっくり物撮りしたように、撮った私がそんな風に言うのも変だけれど、でもまぁ、そう見えるのです。窓ガラスが少し曇っていて写真がソフトになっていることが関係するのか。もしかすると写っているほとんどの人が一人で行動していて、それが実に偶然の奇跡で実景として見たことがない印象なんじゃないか。例えば画面左側の大股で歩いている黒いスーツを着た男や、横断歩道の真ん中より少しだけ左にいて右に向かっているスキンヘッドの男は、なぜだか模型のように見える。

 トーマス・デマンドは事件現場や事故現場を実物大模型で再現して、そこを写真に撮っているんだった。と上の文章を書いていてふと思い出した。その行為の目的や意味を写真家自身がなにか発信したり、あるいは評論家のような人が解説したりしているのを、過去に読んだかもしれないが、なにも覚えてないです。だからそういう発信や解説があるのかないのかもわからない。なのででたらめかもしれないが、最終展示作品は写真ではあっても、その写真を撮るまでに実物大模型を再現することで、その事件や事故のことを様々な視点からより深く理解しようとしているのかもしれないな。

 例えば、この五反田の交差点を取り囲んで10°おきに36台のデジタルカメラが交差点に向けられている。それらのデータを使って計算することで、あとからどこからの視点でもここを見ることは出来る。あるいはこの一人一人含めた交差点の構成要素を3Dプリンターで実物大に作ることも出来る(?そんな巨大な立体物を作れる3Dプリンターがあるのかどうかは知らないが)。トーマス・デマンドは実物大模型を作るときに紙で作る等の材質の制限があったような気もするが(すいません、調べ直していません)、最新のそういう立体情報取得と3Dプリンターを使えば、行為として類似したことを(精神的には類似していないかも)、紙工作ではなく、効率的に革新できる。だけどそんな「便利」を行使すると作品行為の目的や意味すらひっくり返されるなら、それは余計なお世話であり良きことではない。

 小学校の高学年の頃だったと思うが、当時はグループサウンズが流行っていて、とくに人気のあったザ・タイガースとかザ・スパイダースは、ビートルズの映画を真似て?主演映画が作られた。記憶があいまいだが、そういう映画のなかに、自分だけが行動出来て、世界はある一瞬のまま固まってしまっていて、それが溶けるまでのあいだになにかのミッションを果たせば、例えば恋が実るとかかな、そんなファンタジー映画があった。あるいは筒井康隆の短編小説に主人公の時間の流れに対して周囲が遅くなり、なにからなにまでほとんど停止して見える、そういう主人公がたかをくくって走っている国道の車のあいだで眠ってしまうというのがあった気がするが、筒井康隆ではなかったかもしれない。そんな風に「止まった実景」のようでその止まった中を湘南新宿ラインだけが私を乗せて突っ走っている、そんな感じを写真から受ける。だけどこれは模型ではないし時間が停まっているわけでもないし、模型を作ったりもしていないし、ただ撮っただけの写真です。