木の中の秘密基地に関する想像

 会社からの帰り道、車を運転して都内の片側二車線の幹線道路を北上している。ポッドキャスト番組を流しながら、青を三回通り抜けて、次は赤信号で停められる、そんな感じの繰り返しで進む。車が停まる位置は選べない。停まった前の車にあるべき車間距離を置いて続いて停まる。赤信号の先頭になり停止線に停まる。停まって、あたりを見回しても、写真を撮ろうと思う光景があるとは限らない。停められたうちのまた三回に一回くらいちょっと撮っておこうかなと思う光景がある。同じ光景でも撮るか撮らないか、気持ちの持ちようにもよっている。信号がまだまだ赤であるときは、運転手席のガラス窓を下げて、ガラス越しではなく撮る。そんなときには街や道路の喧騒の音が聞こえるようになる。今日は風があって木々が揺れていて、この葉は風向きによって、ある部分が一斉に裏返りながら、その葉が裏返る領域が動く。

 以下、作り話。

 例えば、この木のだいぶ高いところに、突然誰かの顔が現れたら、それはそれはびっくりするんだろうな。いま子供は木に登って遊んでいるのか?こういう木の内側の、高さ3メートルくらいまで登った場所の枝と枝のちょうど良い距離のところに板材を渡して、平面を作る。一メートル四方も大きさが取れればとてもいい。樹上の秘密基地だ。そこからさらに枝が細くなっていくから折れないかどうかを気を付けながら、枝の先へと辿っていて、葉の間からひょいと顔を出すと、幹線道路に走って行く車の列が見える。バスの中でつり革につかまったまま本を読んでいる人が見える。すぐ下のバス停留所でバスを待っている人も。ふざけて大きな声を出してみる、わっ!と叫んではすぐに顔を引っ込める。バス停留所にいる細い女の人が振り向いて怪訝な顔をしたから、ちょっといたずらは成功した感じだ。

 ある日誰かがカメラを持ってくる。秘密基地の秘密を知っている5人の同級生のうち一人くらいはそのカメラで写真を撮ることに夢中になる男の子がいるだろう。ほかの四人が秘密基地にせせこましく四人でくっついて座り、まるで鳥の巣の中の生まれたばかりの四羽のひな鳥のようにくっついて、でもここは僕らの基地だから誰にも知られず、そしてどんなに狭くても、ここにいることは最高に嬉しい。だから思い思いにゲームをしたり女の子に基地の写真をどこだがわからないようにしながらもスマホで思わせぶりな感じで送ったりするのだが、そのカメラが好きになった男の子は細い枝の先っぽへと登る。そして、もう「わっ!」とか言わない。誰かが発明したバス停の人に向かって「山田!」とか「高橋!」とか声かけては隠れるようないたずらもしない。そっとカメラをバス停留所に向けて、そこでバスを待っている、一人や三人や五人や、多いときは七人くらいの人の並んだ背中を撮ってみる。この写真、なにがいいの?とみんなに言われても、なかなかうまく説明が出来ないけれど、そういう写真がいつのまにか百枚も溜まって来ると、嬉しくなる。写真好きのおじさんが言っていた「定点観測」というやつかもしれない。

 意外なまでに長いこと、秘密基地遊びはすたれない。そこに集まることの律義さが仲間のなかで必要なこととされない。来ないことの自由が保障されている。これは最初に基地の七か条というのを作ったなかに明記されていたことが大きい。ひとつ、自力で登ってくること。ひとつ、誰にも言わないこと。ひとつ、来るも来ないも自由でいること。ひとつ、基地が壊れたときは最優先で直すこと。ひとつ、女子は連れてこないこと。ひとつ、持ち込んだものは共有物とすること。ひとつ、この秘密の基地を知る者は自由を愛する精神を持つ。

 最後の決まり、第七条はリーダーの男の子がちょうどそのときに読んでいた誰かの伝記の影響だ。秋になり葉が色づき、葉が少し落葉し、基地まで日が届くようになる。もう秘密ではいられなくなるのも近いだろう。冬の木々に鳥の巣がすぐに見つかるようなものだ。だけどそんな日が来る前に、基地仲間は解散となるだろう。それは第五条が破れれることが目に見えているからだ。

 やがて年月が過ぎて、五人は大人になっていく。誰も来なくなった秘密基地の枝と枝の間に打ち付けらた板材が朽ちていく。朽ちても完全には無くならない。一部が割れたり腐ったりしても。最後に誰かがそこに残していったビー玉が板の節の穴にうまくはまってずっとそこに目玉のようにある。たまに陽の光がビー玉に届くと、そこから虹色の光が分散して太い幹に虹を作ることもあったが誰も気が付かない。

 およそ十年後。あと数週間で新しく住宅を建てるのに合わせて木は切られることが決まったようだ。今日もバス停に人が並ぶ。朝の六時半だ。並んだなかにこの春から社会人になって、三か月たった若い男がいる。彼はむかし基地仲間だった。新しい建築計画が掲げられたから、合わせて木が切られるだろうとわかった。彼は振り向いて見上げる。この木の内側に作った秘密基地、誰にも見つからない場所の基地はまだそこにあるかな?と思う。バスが来た。グレーのスーツは暑いな、早くクールビズにならないものか、と思いながらバスに乗り込む。乗り込んで、つり革につかまり外を見る。木がある。彼はあっ!と驚く。枝の間から少年の顔が見えたからだ。秘密基地は誰かが復活させて使っているのだろうか?それともいま見えたのは幻だろうか。

 次の休日に若い社会人一年生の男は秘密基地を見に行く。基地は朽ちていて、復活などしていなかったが、ビー玉があった。彼はそれを持ち帰った。夜、ビールを一人で飲みながら掌でビー玉を転がしていたが、やがて飽きてしまい、ビー玉は引き出しにころんと入れられた。次にビー玉が取り出されるのは一体いつになることやら。

 ビー玉を引き出しにしまったあと、若い男は基地仲間の一人のことを思い出し、こんど一緒に飲みに行こうかな、誘ってみようかな、と思っている。あの、枝の間からカメラを突き出してバス停を定点撮影していた友だちは、カメラマンになったと聞いたから、ちょっと会ってみたいものだ。