梅雨の中休みの真夏のような日にリヒター展に行く

  東京国立近代美術館は竹橋にある。目の前を皇居周回を走っているランナーが通る場所だ。東京駅丸の内地下道を辿って大手町の地下鉄駅まで歩き、一駅だけ地下鉄に乗る。竹橋には毎日新聞社のビルとして認識されているパレスサイドビル(竣工1966)があり、まずそのビルの、入っても構わない場所(飲食フロアなど)を歩いてから美術館に行くことが多い。ビルの正面入り口を入ると幅の広い階段があり、二階に総合受付があって、その二階の窓から風に枝がしなる街路樹がきれいに見えた。今日は30℃を越える快晴で蒸し暑い土曜となった。梅雨が開けたとは聞かないから、梅雨前線とやらは、まだ南にあるのだろう。なので、梅雨明け後の真夏の日と、今日の真夏のような日とを比較すると、なにか違いがあり、今日は「いかにも梅雨の中休み」なんだろうか。天気予報士はその差を気付いているかもしれないが、私には真夏のありふれた一日が今年はじめてやって来たということをもって、それはありふれてなんかいなくて、特別な始まりの日だ。何週間か前にもこういう猛暑の快晴の日ってあったかもしれず、上記の「今年はじめて」と書いたのは誤りかもしれないけれど、今日は「とうとう夏が来た」と私は感じた。

 近代美術館はゲルハルト・リヒター展を観に行く。思った以上に混んでいて、若い人がほとんどで、驚く。展示の目玉の「ビルケナウ」は抽象画で、抽象画には「すぐに見飽きる」ときと「なにかを見定めようと、時間を掛けてずっと」観ることになる作品があって、この「ビルケナウ」を見ていると、全く飽きない。同じ抽象画であっても見ていてもなにがなんだかピンと来ることもなく、こちらが「撃沈」され「お手上げ」になることが多いのだが。画面のあちこちの色、筆のあと、削られた絵の具のあと・・・そういうことのどこまでが意識的作画でどこからが偶然に任せているのか、アトリエの中のことは知る由もない。けれど、この「ビルケナウ」は仏教の曼荼羅を見ているような、その抽象画面のある部分を取り出すと、なにか群衆がシルエットになって立っているように見えるぞ、別のこの部分にはなにか川がうねって流れているように見えるぞ・・・という見立てた具象が連鎖する。それが抽象でありながら鑑賞者を引き付ける・・・気がする。写真家の西野壮平さんのコラージュの大型作品を思い出す。近づてい見ると、いろんな場面がコラージュに含まれ、そこから無数の層を成して世界があることを感じたが、あの曼荼羅のようなフォトコラージュと、リヒターの抽象画が、私という鑑賞者の心をざわつかせることにおいて似ていてるのかもしれない、それは結局は、この世界と人間をすごく俯瞰した高いところから描いた写真(西野さん)や絵(リヒター)なんだと納得できた(こんなのは私だけの納得に過ぎないかもしれません)。そして、絵の中で、雪が降り、暴風が吹き荒れ、人々は向こうへ向かって歩いていたり、その場でつつましく暮らしていたり、逃げまどったりしていた。歴史のなんてまだ短いことよ、そして人間はなんて浅はかで幼稚で過ちだらけなんだろうか。短い歴史を自ら閉じるリスクさえ抱えて技術進歩に比して思想の足元が砂上にあるようだ。それでも愛の讃歌に包まれるように歓喜もある。あるいはリヒターが描いたのは、菩薩や不動明王が見ているこの世界なのかもしれないとも思った。

 もしかすると、梅雨の中日の猛暑は、まだ海の水温が本当の真夏ほど上がっていないことにより、真夏よりも梅雨の中日の方が海風が強くなる傾向があるのかもしれない。