60年代のオフィスビルが消えようとしている

新橋の駅前にあるビル(新橋駅前ビル一号館)の地階に古くからある食堂街では、年に二度か三度くらい土曜日の昼を食べる。都内のギャラリーで写真展を巡るときに、東京都写真美術館東京国立近代美術館は10時には始まるが、六本木や銀座のギャラリー(WAKOとかシュウゴアーツとか禅フォトとかAKIO NAGASAWAとかTOMIO KOYAMA)は開廊がもう少し遅いので、その前に昼食を食べるのに、じゃぁ新橋で食べよう、と思い立つのだ。このブログにもそんな地下の店で海鮮丼を食べた日のことにちょこっと触れていた。

新橋 - 続々・ノボリゾウ日録 by 岬 たく (hatenablog.com)

この地下街にある鰻屋さんもときどき行く。相場より1000円か1500円安価なのではないかな。そして美味しい。浜名湖などから運んできた鰻を店で焼いている。店内の小さな黒板に、本日の鰻は浜名湖産、とか書いてある。

 昨日、ネットサーフィン(なんと古い言葉だろう!もはや死語なのか・・・)していたら、この新橋駅前ビルは2022年(今年ではないか!)に解体予定と書いてあった。コロナ禍で少し計画が後ろ倒しになっているのかもしれないが、風前の灯だ。この新橋駅前ビル一号館(二号館と三号館もあるらしい)はゆりかもめの乗り場のある方の口の正面にある。ビルの外観は上記私のブログのページに載せてあります。駅をはさんで反対側にあるSL広場に面したニュー新橋ビルも取り壊しが検討されているらしい。

 あのビルはチケットショップがたくさんあり、喫茶店やレストランも入ってますね。紳士服の店も。むかしは中古カメラ店があったけど今はどうなんだろう?いちどTOPCOFLEX、二眼の6×6フイルム用カメラを買おうかどうしようか迷ったことがあったからそんな店があったことも覚えている。このカメラはよく見かける東京光学のプリモフレックスと同じらしいがTOPCOFLEX銘のカメラは台数がとても少ないらしい。あのとき数日後に買おうと思って行ってみたら売り切れていた。古本屋で出会って悩んでそのときは買わなかった本にもそういうことがあるが、中古カメラも古本も一期一会でそのときに買わないと、大抵後日には消えている。私のカメラ防湿庫の中には、ライツミノルタCLやキヤノン6LやマミヤRB67やミノルタオートコードや稼働しないCONTAX Tなんかが入っているが、フイルムカメラ再燃というニュースを見るものの、一方でフイルム販売の終了は相次いでいて、フイルムも高騰していて、数年前よりいっそうフイルム使用の環境は厳しそうだ。もしかすると、もうこれらのカメラも使わないかもしれない。レンズはマウントアダプターで使えるけれど、むかしのレンジファインダーカメラ用の交換レンズはフイルムに光が向かう角度が急峻でも良かったが、デジカメはあまり急峻だと色がおかしくなったり周辺光量が低下してしまうから、使えるとは言っても実際は制約が多い場合もある(とくにワイドレンズ)。

 カメラの話に脱線してしまったけれど、新橋駅前ビル一号館は1966年に、ニュー新橋ビルは1971年に竣工。そしてちょうどいま1960年代に建てられたこうしたビルが次々に建て替え計画を迎えていると思われる。上の写真は有楽町駅近くの新有楽町ビルヂング。上すぼまりの窓の形とその形を強調しているステンレスの窓枠がかっこいい(と私は感じる)し、この紺色のタイル張りの外観も粋だと思う。竣工を調べると1967年だそう。この新有楽町ビルと隣の有楽町ビルにも建て替え計画があり、2023年には閉館というニュース記事が(ネットを調べると)あった。このビルのある通りは丸の内仲通りと言うらしい。ほかにも国際ビルなどもいい感じがする(ちょいレトロ)。

 建て替えの理由は脱炭素社会と災害時防災機能強化なのだが、同時に高層ビル化してテナントを増やそうというM地所グループの戦略もあるのだろうか、ないのだろうか。だけどコロナ禍というのが社会を変えて来ていて、最近ではIT系の会社を中心にオフィスレス勤務、地方というよりどこでも好きなとこからの在宅勤務、に変わりつつある。いまは率にするとまだごくわずかかもしれないが、経営者の代替わりと就職人気条件の変化が進めば、もう丸の内やら新橋や新富町兜町日本橋八重洲にでっかいオフィスビルを建ててもペイしないんじゃないか?と何の資料も調べずに感覚で言ってるだけですが・・・なので建物は今のまんま、脱炭素エネルギー化は出来ないんですかね?そう言えば横浜の市役所は移転して、旧市役所は星野リゾートのレガシーホテルになるんだっけ?そしてその奥には、やっぱりそうなのか、高層ビルが建つそうです。

 下の写真は東京駅八重洲北口のバスターミナルから正面に見えるパソナが入っているビル「日本ビルヂング」で竣工は1962年。このパソナのビルも一部取り壊しが始まっているんだろうか?そんなネット記事もあったけど、よくわからない。この横線が重なっているようなビルデザインが美しいと私は感じる。きっと当時1960年代には最先端のなんらかの理屈(建材やガラス強度やそういう1960年における最先端技術の理屈)に依っていた結果なんだろうな。それが年月を経て、なんだか懐かしさを纏ってくるのが面白い。

 と、最近1960年代に竣工したビルが次々と老朽化(インフラ改革)のために建て替えを迎えているが、今朝、録画しておいたNHKの「映像の世紀プレミアム第15集、1964年の東京」というのを見たら、これらのビルが建った時代の代表だった東京オリンピック1964を成功させるために民意とは別のところで政治家たちが奔走して新たな町作りを強引に進め、だけど反対してた知識人たちも、いざオリンピックの開会式、男子マラソン、女子バレーボール、閉会式とテレビの前で釘付けになったのちには、皆そのオリンピックを開催したことによる効果を評価していたようだった。日本橋の上に首都高が通り、江戸時代には水の都市と言われたいくつもの川が首都高に取って代わり、東海道新幹線が通り(開通発車式はオリンピックの数日前)、水不足に備えて荒川から水を引いてくる突貫工事が行われ(鶴の一声を発したのはいまの河野大臣のお父さん?おじいちゃんか・・・?)、YS11が開発され・・・多くの矛盾と多くの犠牲と多くの被害者を生みながらも総じてこのイベントをもってして日本の国際的地位が認められていくという結果を得て行く。その年の陽の部分と影の部分が番組になっていた。こんなのは本当にその時代のことを知っている人から見ると、NHKのあの番組も結構作為的で強引なんだよなあ・・・なんてことになるんだろうが、なにも知らないからよく出来た番組だと思った。

 だからこのブログにこうして取り壊されるのが惜しいなあということを私が書いた「新橋駅前ビル」「ニュー新橋ビル」「新有楽町ビル」「日本ビル」も、1960年代には、今新しく出来上がっている高層ビルたちと同様に時代の最先端の象徴であって、それまでの都市風景を蹂躙し強引に変更したビルだったのだろう。だからこんな風に私が思っていることを60年代に戻って当てはめたら、これらのビルは新参者であって、それによって消えてしまったいまは見ることが出来ない当時の東京を愛しむ声があったに違いないのだ。時代は回るというか栄枯盛衰ですね。