全体を見て目で考える

 昨年の7月に金沢在住の叔父が亡くなり、その葬儀のために久しぶりに金沢まで出掛けた。通夜式に出て、ホテルに泊まり、告別式に出席したのち北陸新幹線で帰った。帰りにほんの少しだけ時間に余裕があったので、21世紀美術館鈴木大拙館に、大急ぎの短時間だったけれど、寄ることが出来た。写真は21世紀美術館(上)と鈴木大拙館(下)。大拙の言葉(結局はスマホで調べた)に「西洋人は物事を頭で考えて分析・比較・対照するが、東洋人は全体を見て目で考える」というのがあるそうだ。あるいは「科学が万能だというのは近代人の一つのミス」とも。

 引用した前者の「西洋人は・・・」を読んでいると、例えば写真作品を作るときに明文化したコンセプトを書き上げ、それに沿って撮影を実行するような作品作りの手法が西洋的なのかもしれないなと思った。東洋人というか日本人は、言葉に現わせてなくても直感的に写真を撮る場合もあり、その直感はそのカメラマンという今の個を形成している過去に根ざしていて、否応なく写真に現れる。その「否応なく」を、今度は(ときには第三者に委ねて)選択者フェーズとなって、うまくかつ大量に選別して、その大量の写真を何度も何度も見直すことで「これを撮ったという意味はこういうことだったのか」とそこであとから明文化する(後付けコンセプト)。後者のやり方の方が偶然の要素が強く、受け身の撮影が多くなり、音楽でいえばジャズの即興演奏やフリージャズのようじゃないだろうか。一方コンセプチュアルな作品作りは、譜面という全体で一つの曲(というコンセプト)を実現するために、分解された指示書が構成されているような感じで、これはオーケストラの演奏のようだ。

 だいぶ前、作家の小島信夫さんが亡くなる二年くらい前だろうか、作家の保坂和志さんとの公開対談を聞きに行ったことがあった。あのとき小島さんは、この先この文章が一体どこに向かってどうなって行くのかなんてわからない。わからないが、ただ捻り出るままに書き連ねていく、そういうことが小説なのだ、といったことを言っていた気がする。西洋の小説家がどういう風に作品を作るのか、こんなのは二者択一ではなく、また、西洋と東洋で分けるべきことでもなく、その中間的なやり方も一杯あるだろうが、もしかすると書き出す事前に準備と物語の構成を細かく設計して書くことをするのは東洋人より西洋人が割合的には少し多かったりするのだろうか?

 昨年と今年読んだ小説のうち畑野智美と滝口悠生が、新たに読んだ作家のなかでは面白かった。面白かったけれど、ラストはなんとなく流行りの伏線回収をして、物語に落ち度がなく、綺麗に整えようとしている感がして、惜しい!と思ってしまう。もっと適当にばさりと終わる方を期待してしまった。あるいはあえて伏線を回収せずに放っておくことでうるさいコメント民の読者に不満を言わせて放っておくような豪放さを期待する。

 ところで、科学が万能だというのは近代人の一つのミス、は身に沁みる。それは一つはいまのウクライナの戦争の悲劇を見て思うことであり、もう一つは科学で説明が付かないことを見えなくして安心するような世界に警鐘しているんじゃないだろうか。