記憶の扉のパスワード

  数日前のこのブログにそろそろとだんだん飲み会が復活してきたと書いたが、途端に「第七波」と言える感染者数の急増がニュースになりはじめた。十日ほど前にそういう席で一緒だった元同僚が、席が設けられた四日後に陽性となったという連絡があったので(私はぎりぎり濃厚接触者の基準外だった)、そのあと自主的に在宅勤務に切り替えていた。接触後6.7日以内に発症しなければ95%以上の確率で罹患はしていないというどこかの機関だったか大学だかの調査結果のPDF報告書をスマホで読み、金曜から自主規制を解除した、なんてことがありました。

 すごい単純な話ですが、NHK(BS?)で駅ピアノを見ていると、知らない曲と知ってる曲が演奏される。街の名前も知らない海外の「どこか」で、10歳くらいの男の子が「グリーン・スリーブス」を弾き、別の「どこか」では20代のカップルの男がピアノを彼女がそれに合わせて「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」を歌った。私にとっての一番推したい「グリーン・スリーブス」は大学在学中のジャズの月刊誌スイングジャーナルの紹介記事で知ったポール・デスモンドの「ファースト・プレイス・アゲイン」に収録されたその曲で、それは1950年代の演奏だから私がスイング・ジャーナルで読んだ紹介記事は、再発盤に合わせた記事だったのだと思う。あの頃、名古屋のSさん宅に間借りをしていて、大学の授業には碌に行かず、ラジオの深夜放送と、2本ときには3本立ての名画座でかかる映画観ることと、フイルムカメラで写真を撮ることと、カメラ雑誌を毎月立ち読みすることと(ときには買って)、LPレコードを買うことと、妄想の中で恋愛が非常に自分勝手に都合よく進むことと・・・。駅ピアノのテレビ番組の中で少年がその曲を演奏しているのを聴いて、そんな日々を思い出す。

 フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンは1982年頃(私は25歳)に渋谷の小路の狭い階段で上がる二階にあったジャズ・バーでレッド・ミッチェルとジム・ホールのライブ盤のB面に入っているその曲を、私がリクエストして掛けてもらったことを思い出す。平日、会社の帰りになんでわざわざ渋谷に回ったのか、なにか悩みでも抱えていたのか?渋谷は会社から当時住んでいた寮の途中にあったわけではないから、わざわざ反対方向の電車に乗って行ったってことだ。オニオン・スライスを頼んで、ウイスキーの水割りを飲んだが、アルコールには弱いので一杯の水割りを時間をかけてやっと半分くらいまで飲んだが、そのときにカウンター席の隣に座った恰幅のいい50代くらいの男が「さあ、兄ちゃん、もっと飲みなよ」とばかり、私のグラスに(その男がキープしていたボトルから?)どぼどぼとウイスキーを注ぎ足した。それでちょっと頭を下げてお礼を現したが、もう飲み切れるわけがないのだった。一人ぽつねんと座っている私を見て、となりのおじさんは、この若い兄ちゃんは何か悩んでるんだな、失恋でもしたかな、と思ったのだろう。私は20代30代には実年齢よりずっと若く見えたからおじさんは余計に気になったのかもしれない。なんで未成年がいるんだ?みたいな。あのジャズの店は二階がジャズバーで、地階が昼間に営業しているジャズ喫茶で、一階は別のなにかの店だったと思うが、もちろん今はない。オニオン・スライスはその頃によく頼んでいた。たぶん、雑誌宝島かビックリハウスか、そんなサブカル本で誰かが書いた記事にオニオン・スライスのことが書かれていたんじゃないか?その程度のことでカッコつけていたのだ。

 夏至の頃、夜が近づく時間でも暑さが収まらない(実際は真昼間よりは気温が下がった)。会社帰りに駅近くの飲食街をどこかの店に寄るでもなく歩き回るのは、そういう街にいることがなんとなく楽しいからだろうか。そんなときに頭の中に、もしかすると、グリーン・スリーブスやフライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンが流れる。あの頃はジャズのスタンダードを聴くことはリアルタイムな自分の時間に、楽観的な将来への夢(夢想)や大恋愛への憧れがあって、そういうものを彩る音楽だったが、いまやその頃聞いた音楽のメロディを聴くことは、こういう記憶の扉のパスワードみたいになってしまっている。やれやれ、だ。

 それにしてもスタンダード曲というのは素晴らしいな、と思う。どこにあるかも知らない駅で、全く理解できない外国語をしゃべる少年や恋人たちが、ピアノに向かって演奏を始めると、それがきっかけで、こんな極東の日本のおじさんが、こういう風におセンチにも昔あったその曲にまつわることを思い出す。そういうきっかけになってしまうのだから。音楽は素晴らしいな。