同じ街でも個々の違う街

 雨は今日も降り続く。乗っている東海道線(東京~熱海)の下り電車が横浜駅に停車しようと減速した。並走する京浜急行赤い電車は誰も乗せていない回送電車だ。私はこの写真の右方向へと走りもうすぐ停まる電車に乗っている。写真を撮ったときに赤い電車が停車していたのか、右へ走っていたのか左なのか、覚えていない。写真では赤い電車のすぐ左に向こうの道を歩く傘をさして立っている人が3人くらい写っている。写真のさらに左、中央より少し左にも傘をさして左へ歩いている人が写っている。私の乗っている15両編成の4号車はいま高架になっている高速道路の下をくぐろうとしている。写真は私が見ていたある一瞬の光景だが、電車とともに私の視点(カメラ)が動いていて、この赤い電車もたぶんどちらかには動いていて、車窓の光景(すなわち写った写真)はこの一瞬のそこから、ほんの0.1秒後であっても、大きく変わっただろう。そして数秒後には横浜駅のホームに私の乗った車両も滑り込み、ホーム上で電車を待っている大勢の人が見えることだろう。この赤い電車の先頭あたりと左へ向かう傘をさした人の下には運河が流れている。その運河は、この写真の奥が下流で、たぶん横浜港につながる。途中にシーバスという横浜駅から山下公園を結ぶ乗合船というとちょっと単語がレトロすぎる感じだけど、15分なのか20分くらいかに一本出ている多くは観光客が乗る乗船場もある。この運河の上流側、すなわちカメラを向けている方向の背中側が、Y市の橋として戦時中、松本竣介が絵に描いた辺りだと思う。Y市の橋の絵では周りは太平洋戦争で焦土となったからか建物も少なくそんな中に橋のトラス構造の鉄骨だけが濃く描かれている。そういう焦土と化した土地から街がすごいスピードで復興したのだろうな。その結果出来上がったいまの東京や横浜が、杓子定規によく言われる、ごちゃごちゃとした混沌とした街づくりの結果とか、なんの調和もない美しくない街だとか、否定的な評価はいかにも後世の都市理論(机上の空論)の傲慢さじゃないのだろうか・・・知らんけど。その街に人が生きてきた、生きるために街を作って来た。ここに一人一人の歴史というか思い出が蓄積されてきたのだから、どこだって誰かにとっては故郷であり、誰かにとっては好きな街であり、誰かにとっては嫌いな街になる。そういう風に個々が街に暮らしてきたから、同じ街であっても、誰かのこの街と、別の誰かのこの街と、更に別の誰かのこの街は、皆違う。そういうたくさんの個の違う「この街」が交じり合うのではなく、ひとつひとつが交わらないけど無数であり、かつ唯一ここにある。

 殺風景なこんな場所の写真を見ているうちに、こんなことを書いていました。

 

7/17朝に追記しておきます。松本竣介のY市の橋では黒々と描かれた跨線橋の印象が強く、わたしは上の文章を書くときに、その跨線橋をタイトルの示すY市の橋だと思い、その思い込みで書いたのですが、調べてみると松本竣介の立ち位置は上の文章に書いたこのカメラアイの180度背中側からではなく、写真に写った、一人の人が写真の左へ傘をさして歩いている、そのさらに向こうの橋のあたりに立って、その人が渡ってる橋を描いていました。写真の左端に灯りを灯した橋のたもとの門柱?(橋柱って単語あるのかな?)が写ってる、これが月見橋でY市の橋そのもののようです。そしてわたしの曖昧な記憶に濃かった濃い色で描かれた跨線橋は、この上を覆う高速道路のすぐ右側に、あった?ある?らしい。わたしがこの写真を撮ったのは、絵の中にもし電車が描かれたとすると、その絵の中の電車からスケッチする松本竣介を見ている位置関係だった。この橋に行ってみようかな……

https://www.city.yokohama.lg.jp/nishi/shokai/kanko/spot/bridge/hashi02.html

横浜市西区のHPには区内の橋を紹介してる。その41番が月見橋で、そこに載ってる写真は松本竣介の位置からの写真ですね。月見橋と高速道路とこの写真では水色の跨線橋が写ってますね。

Y市の橋を描いた絵は何枚かあるそうですが、国立近代美術館のHPで紹介されているのはこれです。

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索 (artmuseums.go.jp)