烏の教え

  今日は、アメリカの鱒釣りTシャツを着た。アメリカの鱒釣りを書いたRブローティガンがノートに描いた鱒の絵と短い言葉(英語)が印刷されている。鱒の絵と言ってよいのかな、たんなる一筆書きの、無限の記号(∞)の丸の片方を大きくして先をとがらせ、小さい方を尾びれのようにしただけの落書きだ。カウブックスが青山に店があった頃に、その店で売っているのを見つけたその瞬間に買うと決めていた。10年かもう少し前のことだろうか。大事にしているからひと夏に一回着るくらいだ。でもいまでもカウブックス通販ではこのシャツは売っているのかもしれない。アメリカの鱒釣りをはじめブローティガンの本は1975-79年の学生時代によく読んだ。何度も読んだ。

 今朝は7時半頃になりやっと、四日か五日続いていた雨が上がった。昼過ぎには33℃まで気温が上がり蒸し暑くなると天気予報に書いてあったが、ずっと風が吹いていて、そこまで暑くなく、そこまで蒸すこともなく、意外と過ごしやすい日だった。朝、電車の駅の改札近くにあるパン屋併設のカフェでチキンフォカッチャを食べた。ホットコーヒーを付けたら802円だった。細かくほぐしてマヨネーズで和えたチキン胸肉と紫オニオンのスライスが挟まっていて、フォカッチャのパンは柔らかいが、でも少しぱさついた感じ。ホットコーヒーを飲むことで、喉にパンがつかえていたのがスッと直った。

 それから電車に乗り、公園と繁華街に行ってみる。今日は、公園で、カリスマ烏に出会った。カリスマ烏は普通の烏のシルエットより首が少し長く、頭がとても小さかった。普通の烏の頭の後ろ半分が欠けているくらいだ。そして嘴は細くて長い。烏は公園の芝生でなにかを掘り出しては食べていた。そのうちに私を睨み、繁殖期の烏は怖いから身構えたが、なにもしてこなかった。公園をぐるりと一周回ってきたら、さっきと同じ梅の木の下でカリスマ烏は羽根を拡げて、乾かしていた。ずいぶん前、野毛山動物園のコンドル舎で羽根を拡げて乾かしているコンドルを見たことがあった。それと同じようにカリスマ烏が休んでいた。近くまで行ってもそのままの姿勢でいた。カリスマ烏がカリスマかどうかは烏世界のことなので、私にはわからないが、その特異な容姿と、寛容な態度と、人を恐れない姿勢を見ていると無抵抗主義の政治家を思い出した。烏世界のことだからどういう烏世界戦略が議論されているのかは判らないが、だけど、難しい問題は多面的であることに変わりはない。問題は混沌としていて、唯一の解決策なんてないのだ。ベターな解決策はあっても、ベターではないところがゼロではなく、そのベターではないことを被った烏は不幸になる。烏世界も人間世界同様にそうだった。

 するとカリスマ烏が私の脳内に直接信号を送ってきた。それはこんなことだ。

「烏世界では多面的に物事をとらえたときに、一つの最適解がどうしても得られない場合、そこに多数決などという強引な手段で決定する人間社会の奇妙なやり方はないのだ。そのときはもっともっと多面的になるように、次々と関連する事象を増やすことが肝要だ。すなわち多面体はもっともっと事象たる面が増えると、最後は玉(ぎょく)になるではないか。玉は転がり、弾み、道標となって先を行ってくれる。そしてもう面は消え全部が同じ曲率の曲面として混然一体となる。そうなることが道標なのだ。人間だって泥団子を作りいつかは表面をぴかぴかに変えるではないか。あれはどんな科学よりも重要な行動ではないか、なぜ忘れてしまうのか。玉が教えることは、角が立ち面があるあいだは、待てということだ。待って変えるな、ということだ。やがて時が経つと、反省がやってきて、反省が降らす雨が、角や面を丸くする。すなわち玉こそ肝要。丸くなれ。カァカァカァ・・・」

 変な話だな、と思った。すると、カリスマ烏は拡げていた羽根を突然閉じ、ばさばさと飛び立った。人間の目から見るとちょっと特異な容姿だったが、烏世界ではなにも特異ではないのかもしれない。だから私がそう感じたカリスマではなく、烏世界ではただの一羽の烏となり仲間と一緒に青い空を背景に小さくなっていく。足元の芝生に白くて丸い茸が生えていた。指先でつついてみると、なるほどね、こういう感じかと触覚が感じ取る。驚きはなくて、確認のようなことで、でも触ったからこそわかることだ。茸の次に、大きなカタツムリを見つけた。今朝家の玄関を開けて外廊下に出たら、ミンミン蝉の雌がひっくり返っていて、足先でちょいと突くと羽根をぶるぶると揺すったけれど、再び飛ぶほどの生気は残っていないようだった。そのことを思い出した。公園には水たまりがあちこちに出来ている。アオスジアゲハが飛んでいて水を飲んだらしい。

 烏、白い茸、大きなカタツムリ、ミンミン蝉の雌、アオスジアゲハ。公園の緑は夏真っ盛りに生い茂っている。赤いシャツを私は持っていない。