海が泡立つような南風が吹く日にアレック・ソス展に行った

 写真は午後3時頃の茅ケ崎の海水浴場より西側、相模川河口近くの砂浜消失防止のため?に大きな石が組まれ、この写真のもっと右側にはどこかから持ってきた、流出した砂を補填する為だと思いますが、土が積まれていて、まぁ砂浜を維持するために自然と格闘しているような、荒々しい景色のエリアです。

 今日は一日中ずっと南風が吹き続けていて、こんな場所を望遠レンズを装着したカメラを首からぶら下げて歩いているとカメラもレンズも細かい細かい海水の霧を受けているに違いない。レンズの先頭のガラスを見るとそのせいで曇っているのが判るので、ハンカチでそっと拭き取った。鳶がたくさん、烏がその次に多く、ときどき鴎が飛ぶ。彼らは南風をうまく利用しながら、ホバリングのように飛んだり、すーっと風に乗って滑空している。海面はまるで炭酸飲料水が泡立っているように、真夏の真上からの日の光を受けてぎらぎらと輝いていました。

 今日は、朝の8:00に家を出て、自家用車を運転し、海沿いの国道134号線を西へ走った。茅ケ崎市から辻堂までは車の右側に広がるはずの海岸は防砂林で見えないが、鵠沼から江の島を抜け、鎌倉に入ると、海の家の出ている海水浴場では海水浴に興じる若者や家族で砂浜はパラソルで埋まり、遊泳が出来ない砂浜にも大勢遊び、沖に目を転じると、サーファーが黒くシルエットになって浮かび、もっと沖には小さなディンギーヨットやウインドサーフィンが風を受けて突き進んで行く。渋滞で停止するたびに右側にずっとそんな風景が広がる。車の種類やデザインや、建物の外観や、ランドマークとなる建物自体の変化、あるいは二輪車の数が減っていたり、信号がLED化されていて、そういう何十年かの間の変化に対して、近くに行けばもちろん水着デザインの流行の変化や海水浴の遊具なんかも変わったのだろうけれど、点景で見えると、いちばん変わっていないのは真夏に海に来て遊ぶ人たちが浜辺に作る風景なんだなと思った。

 

 道路はおもいのほか空いていて、神奈川県三浦郡葉山町(一つ町からなる郡なのです)にある神奈川県立美術館葉山には開館30分前の9:00に到着。開催中のアメリカの写真家アレック・ソスの展示を観る。一周して、約1時間のアレック・ソスの撮影行のドキュメント映画を観て、それで11:30になり、近くの古民家レストランで餃子定食(野菜の蒸籠蒸しやお吸い物やほかに小皿の付いた素敵な定食)を食べて、再びもう一度じっくりと写真を観ました。すると時刻は13:30だった。駐車場代が高くついた・・・

 

 アレック・ソス。ミシシッピの写真集を持っていて、それを見ていたときには現代版のニューカラーで、ありふれた場所のありふれた暮らしを8×10とは言え、なるべく主観を避けるようにスナップ的に撮り集めた、その場所がミシシッピだった、というような勝手な理解をしていた。が、展示を観て、もっともっとずっと深く考えられ、コンセプトに基づき、こういう写真を撮りたいということをあらかじめ書き出し、それに沿った被写体を求めて長い取材旅行を一人で車で慣行し、ときには危ない場面もあるのだろう、それでも誰かの家をノックし、誰かに声を掛け、しながら作品を構成する一枚の写真という「部品」を集めて行く・・・ドキュメント映画を観て、すごい緻密な作業なんだと知り驚いた。

 ちょうどブローティガンの「アメリカの鱒釣り」新潮文庫版をバッグに入れ、何度目かの再読中だったが、あの本の一篇一篇がときに良くわからない物語の断片のような、あるいは詩のような文章で、アメリカの鱒釣りという単語の意味も、アメリカという単語の象徴だったり、その象徴がアメリカ人の釣りという趣味?に投影された出来事だったり、アメリカの鱒釣りという名前に名を変えた擬人化された概念だったりしながら、読み終えると、アメリカ国内を移動していく重層化されたアメリカの「事例集」のような緻密に構成された本だとわかる。それとソスの作品に共通性を感じたり。でも違うな、とも思ったり。

 あるいは音楽でいえば、スフィアン・スティーヴンスの州別に作られる音楽アルバムは違う分野だけど似たコンセプトなのかな?と考えたりも。

 ドキュメント映画を観ていると、結局出会う人々、この映画が追っているのは作品「ブロークン・マニュアル」の制作過程で、この作品はアメリカの荒野の中にぽつんとある小屋や、崖の洞窟の中や、いろんな場所に隠遁している人々(髭を伸ばした男性ばかりだった)をその暮らしている場所を精緻にとらえ、その人をとらえ(決して笑顔なんか撮らない)しているのがわかる。なかにはたぶん殺意に満ちた狂人のような人もいるようで、それでもソスはコミュニケーションを取り、まず被写体と打ち解けることから初めて(ときにはそのコミュニケーションで感動して写真を撮ることが出来ない)いく。緻密に計算されたコンセプトと、だけど現場にある全く知らなかった人や風景やその日の天気の偶然や・・・緻密な構想、緻密なカメラとレンズを扱うテクニック、強靭な身体と意思、そして現場での臨機応変な対応、たぶんその現場を受け入れる受け身の柔軟さ、そういうすべてが結実しないと生まれない写真作品なのだった。

 そして、ロバート・フランクが炙り出した「実際の」「本当の」アメリカという国であり人であり概念であり時代の記録が、その引き継がれた系譜のなかで誰かがどこかを深堀りしていく、そして表現のうねりになって続いている、のだとすると、ソスはその系譜のなかで自らのコンセプトでアメリカを炙り出してるってことだろう。

 

 

 

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