(早くも)晩夏にはソプラノサックス

 赤信号で停まり、運転席から右前にこのマンションが見えた。すぐ前に停まった大型トラックが荷物を入れる直方体のアルミのボックス(荷物室)の下に、1mおきくらいの間隔で青っぽいライトを点灯していて、その光のせいでマンションが青ざめて浮き上がった。本当はクリーム色というのかベージュというのか、そういう色のマンションと思われる。コンパクトデジカメが判断したオートホワイトバランスは、暗い空を少し緑っぽく変えた。赤信号になったばかりなので一分ちかくは停まるだろう。そこで運転席の窓を開けて焦点距離を変えながら、ぶれないように慎重にシャッターを押した。2枚。でももう少し右側を広く入れた方がよかったようだ。夜とは言え、環状八号線道路上の空気はすさまじい熱気をはらんでいて、窓を開けたことで、せっかく冷えた自動車室内の空気を乱暴に押しのけるようにして熱気が入り込んできた。だけど、もう夏至を越えてひと月以上経って、今日は19時の町はもう薄暗かった。夏至の頃より夜が早く始まり、朝は遅くなっている。

 盛夏から晩夏にいたる日々の、昼下がりや夕刻や夜、ソプラノサックスが奏でるジャズやフュージョンの、ミディアムテンポの曲を聴くと、もうすぐに夏が終わるというような、祭りの後を予感するような、ちょっと哀しい気持ちになる。悲しいより哀しいって感じで。狂気に自分が含まれていたわけではないとは思うが、夏それ故に、夏それだけが理由で、世の中が狂気に0.1%だけ近づいた。その夏が、±0ではなく、0.1%だけ杓子定規で生真面目な9月へと受け渡される予兆が、まだ8月にもなっていない7月下旬にすでに感じることがある。たぶん季節に敏感な人はもうとっくにたくさん感じている。

 悲しいとスマホで検索すると「悲しい」の意味は「心が痛み、辛く、切なくなり泣きたい気持ち」で「哀しい」の方は「あわれで、悲しく切なく、胸がつまるような気持ち」とあるが、ちょっと違う解説もあるようだ。上記はDOMANIという小学館の大人の女性向け雑誌のHPからの抜粋です。でも「切なく泣きたい」と「胸がつまるよう」とに違いがあるのだろうか。同じ感情をどう表現するかでAさんは前者のような表現を使うし、Bさんは後者を選ぶ。すなわちよく違いがわからないですね、DOMANI。

 これは私の勝手な考え方でぜんぜん違うのかもしれないですが、悲しいは具体的にその感情を起こすに至った理由が明確にあって、恋人に振られたとか、親しく毎日会っていた友が海外へ赴任したとか、必死に頑張ったけれどテストに合格しなかった、といった。

 哀しいはもっと漠然としていて抽象的な気持ちの色合いのような、気分のようなときに使いたい。夏至が過ぎて昼間は猛暑でまだまだ真夏のどまんなかにいるときに、それでも夕方夜が早く来るようになってきたことに気が付いたとき、真夏なのにいつのまにかコオロギの声を聞いたとき、真夏なのに夕方に吹いてい来る海風にほんの少しだけ優しさが混じっているのを知ったとき・・・

 上の写真を撮った自家用車のなかで、そういう夏の終わりの「哀しさ」に似合うのはソプラノサックスの音色で、ソプラノサックスがスローまたはミディアムテンポのジャズやフュージョンを奏でると、私は「哀しさ」に包まれると思う。でもそんなのも思っているだけで、では具体的にこの曲がその類と具体的な曲を挙げることが出来ない。たまたま車で流す音楽を入れたUSBメモリーが車のUSBポートに刺さっていたので、そこに収められた中から日本のジャズドラムの大坂昌彦のアルバム「クロスフェイド」に入っている「モーニングダンス」を掛けてみたが、近いけど、どんぴしゃ私が晩夏に感じる「哀しさ」とはちょっと違う。ズートシムスのタイトルもずばり「ソプラノサックス」というアルバムもそのUSBに入っていたから次にこれを流してみたが、哀しい曲は少なくもっと楽し気な感じだった。イメージとしてそう思っている「ソプラノサックスは晩夏の哀しみ」がどの曲からそう思うようになったのか?そこを忘れてイメージだけが残った。

 コルトレーンの「マイ・フェイバリッド・シングズ」は晩夏の哀しみではなく、まだ真夏を感じるのです。

 

Soprano Sax

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