山の上で何かが光っている

  二日前の土曜日の8時頃、湘南平に上がって、広く相模湾を眺めては写真を撮っていたときに、遠くの山の上にこの写真の光を見つけた。ここから湘南平に向けて人工的に光線を放ち、真夏の快晴の日にこれだけの光量を湘南平まで届けるのは不可能だろう。ところで「ここ」とはどこなんだろう?写真で左側に伸びている岬が真鶴の岬だと思う。グーグルマップで見当を付けると、湯河原カンツリークラブや星ヶ山公園、あるいはなにやら新興宗教の建物がある辺りに思えるが、見当違いかもしれない。杉本博司の江の浦測候所は、もっとずっと低い位置だと思われる。人工発光ではないから、太陽光線をほぼ正反射する金属やガラスのきらきらした建物があって、この日のこの時間に私のいる湘南平にその光線が届いているのだろう。

 小学生のころ、第一校舎一階の教室の南側の窓に直射日光が差していて、中庭の、花壇や主となっている大きな雷魚が住んでいるという噂の池を挟んで、第二校舎の北側の廊下に向けて、手鏡を使って光を当てて遊んだことがあった。それは第二校舎に教室がある仲間の誰かへの合図だったと思うが、ときどき人気の女子が見えると、みなで光を当てていた。

 太陽の位置、正反射をするなんらかの建造物の反射面の角度、それを上から見下ろした俯瞰図に線を引いて、湘南平に反射光線が通る日時はいくつかあると思うが、この光線がどれくらいの径を持っているのかはわからなかったが、今度は横から見て、光線が湘南平の高さをちょうど通過することも必須条件だ。こう考えると、この光線がこのように見えるのは、所定の(例えば7/30)の午前8時××分から2分だけ、と言ったように、実は稀有な瞬間だったのかもしれない。よく富士山のてっぺんに陽が沈むダイヤモンド富士を撮るべく、場所と時間を計算して(スマホになり計算というより検索で済むらしい)場所を求めて、そこへ撮りに行くという風景写真家がいらっしゃるようだが、そういうのと稀さにおいては同じだ。ダイヤモンド富士ではなくただの山の上の煌めきだから、風景写真の決定的瞬間ではないけれど。繰り返すが、ここでこう見える確率の少なさだけを取り上げれば決定的瞬間と同じ「稀さ」に違いない。

 ある日のある時刻だけにある決まった場所に光を届けるような仕掛けを作ることがあるだろうか?上記の杉本博司の江の浦測候所では、夏至とか冬至とかでしたっけ?その日の太陽光だけを導きいれる光を受ける道筋のような仕掛けの建築物があると聞くが、7/30の午前8時過ぎにだけ湘南平で光が見えるよう、例えば大きな鏡を計算づくで作り設置する(秘められた)人の意思があるとすると、その意思とはどういうことだろうか?こんなことから物語をでっちあげられるのが小説家かもしれない。私にはなにも浮かばない。

 例えば拠点AにA中学校があり、拠点BにB中学校があり、二つの中学は姉妹中学のように密な交流があるとする。そしてA中地学部とB中地学部が、50キロ離れた二つの学校を使って光でのやり取りが出来るかを検証することになった。というのもつい先年、A中の近くの小高い山の中腹から大きな銅鏡が発掘され、ちょっとした話題となったのだが、古文書に突き合わすと、その銅鏡は古墳時代にその地にあったと伝わっている神殿に置かれ、日々太陽の光を遠く様々な場所に正反射して届けていたと思われたからだった。そして光が届く日に様々な場所(それぞれの場所にとっては光が届くのは決められたある日のある時刻だけだ)でその光が届いている短時間の中で無礼講の祭が行われ、太陽神のもと五極豊穣を祈っていたと考えられた。そのニュースを検証すべく、A中地学部がA中校庭に大きな鏡を添えて、姉妹校のB中学校に光を届ける実験をすることになった。光が届くのは計算によると7/30の午前と定まった、しかし角度の微調整が必要だから、傾き調整つきの鏡を置く台をA中側に設置。B中側の報告を受けながら鏡の角度を微妙にコントロールする。・・・というような夏休みの研究っぽいストーリーなら浮かぶけれど、これではまったくつまらないですね。

 もっとなんか七夕物語のように幽閉された恋人たちの年に一度のやり取りが誰にも知られず構築されているようなファンタジーにはならないかな?

 やれやれ、暑い日々が続きます。