どこかから運ばれていまここに

 まぁなんか、ざらざらした質の紙の向こうに電球が置いてあるようにも見えますね。月です、薄い雲の向こうに満月にもう少しの月がありました。トンネルや洞窟や井戸の奥から、光の入って来る方向を見ているようだとこれはそのときの空を見ていて、ではなく、写っていたこの写真を見て、そう感じました。でもそれは振り返って入り口を見て、だけど暗がりへと進んでいくのか、それとも前進してきた先に出口、すなわち当面の目的地としての出口が見えて来たのか、わからない。

 7/24に行ったアレック・ソス展でソスがシリーズBroken Manual(アメリカの砂漠地帯などの荒野のなかに一人、小屋を建てたり、洞窟を家に改造して、隠遁生活を営んでいる人を訪ね歩くシリーズ←これだけではたぶんすべてを言い得ていないですね)の撮影をする旅に同行し、その様子を撮ったドキュメント映画、約1時間もの、が上映されていて、コンセプトを決め、あらかじめ撮るべきイメージも書きだして、旅を続けるソスだけれど、旅先で出会ったことに導かれるように、次から次へと、それは人づての情報の連鎖の場合もあるのだろうし、なぜか運命的な偶然のようなことの連鎖もあるのだろう、次から次へと起きること(現れる光景)に「運ばれる」感覚になっていくこと、それが撮影行の醍醐味だといったことが語られていた。

 この「運ばれる」ってことが、ソスの撮影行のことだけではなく、実はすべての人生とはそういうことじゃないか。すべての人がなにかしら「運ばれて」いまがあり、ここにいるのだろう。

 ソスは運ばれた結果、追い求めたことを見つける、それ以上の素晴らしいなにかに出会う、そのときにはそれが素晴らしすぎてときにはシャッターが押せないと言っていた。

 運ばれた結果に悔いなく、幸あれよ