鉄橋の下の釣りが少し気になる

 高田渡(というもう亡くなってずいぶん経つフォークシンガー)に、日曜日に近くの川まで魚釣りに行き、日がな一日そこで過ごしている、という歌詞の曲があった。日曜日にはあの小川まで行き、朝早くから夕暮れまでずっと、糸を垂れている。酒を抱いて行って、日ごろのウップンを餌にして一日を過ごす。そういう内容の一番が歌われる。そして二番になるとそこに「ジイさん」が登場する。魚釣りの名人のジイさんは、糸を引き上げる時に、しわがれ声をおしこらえて全身に微笑を浮かべる。全身で微笑むというのに嘘がない、本当の微笑みたる小さな幸せのように思える。そして歌詞はそのあとに、多分ジイさんの糸が引き上げられると、ということだと思う「竿から夕暮れがあたり一面に広がるではないか」と続く。「竿から夕暮れがあたり一面に広がる」で終わるのではなくて「広がるではないか」、この「ではないか」にちょっとはっとした気持ちが乗っている。休日を休日として過ごす定番のやり方があって、休日だからといってハレの日となるイベントに執心はせず、でもそのやり方によって、ある程度かもしれないけれど日ごろのウップンが晴れる。なにしろ朝早くから夕暮れまでなのがいい。時間をどうにかして充実させようなんていう焦りや欲がなさそうだ。たぶん、釣果はなくてもそんなに悔しくはないんだろう。そして、そこには一人きりではないことが二番で明かされる。ジイさんは名人。もしかするとそれほど親しいわけではないんじゃないか、たまに会う。今日はジイさんも来ている、前回は一人だった、大勢来るときもある、それはそのときそのときで、自分だって、日曜日だからといって毎回来ることが出来るわけではないが、目下の最上の過ごし方はこの釣りなのだ。そう、今日は名人のジイさんがいる。名人たって、ここに来るベテランで、ちょっとだけ上手に魚を釣るというだけで、それを目指そうなんて思わない。と、ここまではちょっと憧れる休日の釣りだろう。だけどこの歌詞はそのあとに「竿から夕暮れがあたり一面に広がるではないか」と歌われるのだ。これをどう捉えるかはよくわからない。ただ、美しい夕焼けを不意に見ることで、待っていたわけでなくそこに居合わせて見たことで、ちょっとだけ得した気分になるかもしれない。ジイさんの竿が魚だけでなく夕焼けをも、まるで竿が魔法使いの杖のように振られて、さーっと川面を紅く染めた、その驚きもなにも起きなかった一日に、ちょっとだけひと手間加わって、今日という日が一味変わった。いいじゃないか、これはカケラかニセモノかもしれないが、幸せに似ている。いい曲だと思う。

 京浜東北線の上りに乗って多摩川を渡るとき、進行方向を向いて左の窓には河川敷の野球場がいくつも見えて、土日には少年野球の選手や保護者が大勢つめかける。その向こう、屈曲した川の流れをはさんで、大きな団地の建物が見える。一方、横須賀線東海道線の上りに乗っていると、上記の京浜東北線の線路があって、その河川敷の広々とした風景は見えない、というか見えるけれど、京浜東北線の鉄橋の向こうにしか見えない。だけど、すぐ下を見ると鉄橋の下の日陰にたいてい釣りをしている人がいる。この写真を撮った土曜日は、一人の釣り客だったが、多いと四人五人、少ないとゼロだけど、鉄橋の影に座り直射日光を避け、川面を渡る涼しい風を受けて、釣りをしている。皆さんが高田渡の曲に歌われるような気分ではないだろうけれど。なかにはそういう人もいるかもしれない。なにが釣れるんでしょうね?遡上するアユなんか捕ったらダメなのかしら。あとはウグイとかそういう中下流の川魚?ボラもこのあたりまでは上がるのか?最近は多摩川もきれいになったと聞く。会社の大先輩が多摩川の近くにご自宅をお持ちだった。怖そうでニヒルなイケメンでその実すごく優しかった方、癌で70前に旅立たれたと思う、その方は季節ごとに多摩川で何かを採っては食べるのが楽しみだと言っていた。鰻や鯰がかかったり?

 一週間くらい前のブログに「退屈と暇」についての本を読んでいる方にコーヒースタンドで会ったということを書いた。この、歌詞のような釣果を期待していない朝早くから夕暮れまでただ糸を垂れて日ごろにウップンを晴らしている過ごし方は、どう定義するのか。それを繰り返していると仙人になれそうだ。

 かといって私は川釣りをしようとなかなか思わない。というのか「まだ出来ない」が正解か。欲目があって、新しいアートを見たくなったりで右往左往している。あるいは写真を撮って、こうしてなにかを発信することを続けたいと思い、その思いも、なにかを期待している欲目かもしれないですね。